既得権の社会学
再び教科書のための頭の整理のメモです。
最近は社会学でも「既得権」という考え方に反応する人が増えているような気がします。これも先日のエントリでちょっと触れた「社会学者の構造改革派バイアス」の表れにみえなくもないです。が、社会学を救うというわけじゃないのですが、今回はちょっと別の視点から論じてみます。
ここでは、レントについて、社会学的な概念を使うとどういうことが言えるのか、ということを検討します。(その他の面での既得権の話(機会不均等の話など)---こちらの方が本流の社会学には親和的なんでしょうが---はしていません。)
まずはおさらい。レントとは、簡単に言えば市場価格から乖離して上乗せされた価格の部分のことです。レントによって、その事業への新規参入が阻止されたり、あるいは逆に退出をコントロールしたりします(準レント)。で、レント・シーキングとは、レントを獲得するための政治的・社会的活動です。ロビー活動というと分かりやすいかな。あるいは分配決定権を持つ上司とのパーソナルなコネを作る活動とか。ほんとはもうちょっとややこしいのですが、こんなもんでとりあえず十分かと。
レント・シーキングは経済学的には資源の浪費になるので(非効率性+インフルエンス・コスト)、それが生じないような制度設計をすることがヨシとされます。基本的にミクロな概念ですが、失業を理論的に説明することができるなど(効率的賃金仮説)、ミクロとマクロの橋渡しにもなっている概念です。
で、(先日のエントリのコメント欄にshumeiさんが書かれているように)経済学は禁欲的な科学ですからそれ以上妄想を広げたりしないと思うのですが、ここをもうちょっと広げると社会学的な議論になると思うんですよ。「どうして無駄だと分かっているのにレントが維持されているのか?」という問いの設定です。
レントを獲得する競争は、何も利権意識丸出しのおっちゃんたちが繰り広げる、露骨で説明可能性をもたないものばかりではないと思います。同時に、何かしら一般の人に受容されやすい価値に訴えていることが多いわけです。誰から見てもすぐに「無駄!」「既得権!」だとわかるようだったら、少なくとも開かれた社会ではそうとう露骨なことをしないとレントを維持するのが難しくなるわけで。
分かりやすいところから例を挙げてみると...
- 食料自給率:数百パーセントの関税をかけても、自給率は落とすべきではない。
- 電波の公共性:電波には公共性がある。ホリエモンに買収されたら電波は「市場原理」に犯される。
- 医療、福祉:人間の健康は市場価値で計るべきようなものではない。
- 文化、芸術、学問:芸術や学問とは崇高なもので、容易にその価値は知り得ないのです。
「だから無駄だとかいわずに(コスト計算せずに)お金よこしなさいor競争を規制しなさい」となります。こう列挙すると、「利権のニオイがぷんぷんするな〜」と感じてしまいますが、他方でこれらの主張が依って立つ価値を取り出してみると、少なくともすぐには否定することができないものが含まれているところが、レントの頑固さを説明します。つまり、「市場で価値が付かないモノを扱っているから、そういったグループへの資源配分を市場から独立させようとしている」のか、「資源配分を市場による決定から独立させるために、そういった価値を利用しているのか」は、利権批判者が考えているようにはすぐには(そして一義的には)決まらないために、なかなか「無駄」がなくならないわけです。
「無駄」の論理って、思ったより分からせるのが大変です。特に貨幣的価値以外の価値に人が強くコミットしているときには。なので、経済学的発想に対して漠然とした不信が生じ、一部には「市場原理」がそのまま(中身を検討されることなしに)批判の対象として通用したりするわけです。こういう状況をみて、市場メカニズムのメリットに詳しい人は「あいつらバカ?」と感じるかもしれませんし、逆に市場という言葉自体に否定的意味を拾ってしまうような人は「あいつら冷血人間なんじゃないの?」と感じるかもしれません。
Harold Winterの"Trade-Offs"の序文にそのことを思い起こさせるエピソードが紹介されています。いま手元にないので、ブログでの紹介記事を引用。
Second, in the introduction he relates how, after he explained the trade-offs in health economics to his mother, she looked at him in disbelief and said, "You're a monster." Very amusing, but too true about how non-economists perceive our analyses. [When I asked him about this in e-mail, he said his mother no longer sees him as a monster; in fact, she seems to be a strong convert.]
(おおざっぱな訳:序文のなかで著者は、こんなエピソードを紹介しています。筆者が健康の経済学でのトレードオフについて母親に説明したところ、母親は著者を「信じられない」というような顔をして見つめ、「あんたはモンスター(英語では「残忍・非道」といった意味)だ」と言ったというのです。おもしろい話ですが、経済学を知らない人の経済学的分析についての受け止め方は、まさにこういうものです。[私が著者にこの話についてメールで聞いたところ、母親は今は著者のことをモンスターだとは思っていないということでした。なんと、すっかり転向してしまったそうです。])
- 作者: ハロルド・ウィンター,山形浩生
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Winterが本の中で書くとおりに(参考)、順を追って丁寧に話せば「冷血説」は取り消しできるのかもしれません。が、多くの人は「転向」に至らず、「経済学者冷血説」を抱き続けるでしょう。
こういう閉塞的状態は、社会学的に言えば「専門家システムに対する不信」です。この場合、経済学という専門家システムに対する不信なわけです。すべての人々に経済学を学ばせるのは非現実的ですから、信頼してコミットさせる必要があります。ギデンズによれば、不信を持つ人々に対してそのシステムにコミットさせるためには、「真実」を説くという方法はダメで、「誠実な自己開示」しかないそうです。
「なに、そのNHK教育の道徳みたいな話」と思われるかもしれません。私も最初はそう思ってました。しかしギデンズは真顔でそういうことを言います。
これは意外にややこしい話です。単純化すると、「同じ知識を持たせることが不可能」(したがって「結果は判定できない」)という縛りの中で、いかに信頼を獲得するか、という問題です。この縛りだと、繰り返しゲームで修正しようにも、ゲームの結果がいかようにも解釈できてしまうので、決着が付かないのです。「格差は小泉のせいだ!」とも言えるかもしれないし、そうじゃないとも言える、みたいな。景気が回復したらしたで、かねてから対立してきた両陣営が「ほら自分たちの言うとおりだ」と言い始めるかもしれない。たとえ専門的には決着できても、その決着の知識が複雑で多くの人に説明できないときは結局同じです。社会主義のように壮大に失敗すればさすがにたいていの人は納得しますが、これほど犠牲を払う必要があるかと思うと憂鬱です。
こういう縛りのある状況で信用を獲得するにはどうしたらいいでしょうか。ひとつには、専門知識ではなく、その知識を発する人(素人と専門家システムのインターフェイスにいる人、ギデンズのいう「アクセスポイント」)の人格を信頼させるというやり方があります。これは社会学では「親密性の専制」と言われる現象です。「政策じゃなくて人柄で支持率決定」みたいな。評論家の人気の源泉でもあります。
ところが、それだけだと「ウソの知識」を信頼させることも可能になりますから、十分に懐疑的になってきている現代人については説得することができません。下手をすると、「あいつはいい人オーラを出しているから信用できない」なんて言われてしまいます。
まとめると、原則的に知識のギャップを埋められないという拘束があるかぎり、「おまえ、こんな事もわかんないなんてバカじゃん?」という態度をとっていると、逆に自らが属するシステムが影響力を行使できなくなります。他方で、何の説得力も持たずに道徳を振りかざしていても、やっぱり信用されないです。
知識もダメ、人格もダメ。じゃあどうすれば?となります。
そこで、求められたら誠実に説明し、できるだけ分かりやすく情報を開示するというスタンスを維持する、という方法がとられることになります。こういう戦略はすでに経営学の分野では意識されています(経営学の話をすると経済学者はバカにするかもしれませんが)。たとえば、素人には飛行機の飛び方の知識なんか知りようがないですし、墜落事故の調査報告なんて読めません。アテにするのは、会社は誠実に情報を開示しているようにみえるかどうかしかありません。情報を隠しているように見えたり、不自然なレベルで専門用語を使っているようにみえたりすると、システム不信を招いて会社、下手をすると業界全体の取引が縮小します。
伝統的な社会だと、「君は無知、ぼくは知ってる、だから任せなさい」が統治の原理として通用したわけですが、特にいろんな専門家がいろんなことをいう後期近代社会では、この戦略は通用しないことになります。「わかりにくいこと」はもはや支配の源泉にならず、むしろ不信を引き起こします。専門家の方からすれば、信頼を獲得することに(事実を発見することにかかる分とは別の)エキストラ・コストが必要になるわけです。
既得権の話に戻します。たしかにこの問題は「不当にお金を持っている悪い奴らがいて、それに対して正義の学者さんが真実をもって挑む」という側面もあるのですが、一般人からすればどちらを信用していいのかわかんない、という状態でもあります。「電波は公共的なもの!拝金主義(市場原理=ホリエモン)は排除!」といわれれば、中には(ちょっと不信に思いつつも)「そうかもな」と思う人はいるでしょう。マスコミはこういう図式を作るのだけは上手ですし。「医療・福祉を経済で語るなんてとんでもない!」という人に対して、誤解を解くことには難しいものがあります。
既得権保持者にとって幾分か有利なのは、信頼を獲得するのに複雑な説明ではなく、直接的価値観(「子どもは大事」とか「公共性」とか)を利用することができるからでしょう。というより、そういう価値観を利用しやすい分野がレント・シーキングの舞台になっているといってもいい。社会保障は一つの例でしょう。事実、社会保障の経済学の鈴木亘先生のところのブログのコメント欄には、分かりやすい価値観に立脚した専門知識の誤解がいくつかあります。いわく、「視点を「こどもたち」に置いてみて下さい。今まで見えていなかったモノがみえてくるかも...。」「基本的に大事にしたいものが、子どもではなくてお金である人の考えですね。それを巷では市場原理主義者と言うのではないでしょうか?」専門家からすればどん引きなコメントですが、むしろこういったコメントが一般人の感覚です。他には、たとえば環境問題などはそういう単純な価値観と知識とが乖離しやすく、ひいてはレントが発生しやすいのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、こういう場合専門家システムと素人との間にいるインターフェイスが信頼戦略の鍵を握ります。マスメディアに呼ばれる専門家、そしてブログはアクセスポイントの例ですね。ギデンズがいうには、「どこまでいっても専門知識の正しさで説得できない」という縛りがあることについては、いまや素人もどこかしら気づいているので(「懐疑の制度化」)、開示のあり方が戦略上重要になります。どんなに崇高な価値観をふりかざしてようと、うしろめたいところがあって、開示(討議のテーブルにのること)を拒んでいると、いずれは負けちゃいます。ただし、正しい知識が伝わるから勝つ/負けるというよりは、誠実に説得しようというその態度が勝敗を分ける、ということです。開示と誠実さから、人は背景にある知識の正しさを推測する(そうするしかない)わけです*1。
レントの非効率性を身をもって露骨に体現したのが社会主義経済です。したがって社会主義から資本主義への移行を研究する移行経済論では、制度(民主制、裁判制度、マスメディアの発達による言論の自由等)がレント・シーキングを抑制する要因として検討されています*2。ところが、いまやこれらの制度それ自体も信頼/不信の判断対象になっています。民主制は基本的に成長を促進すると考えられていますが、同時にレントを生み出す仕組みでもあります。これは、暴露されると支持を失う利権だけではなく、人々が素朴に受け入れている価値観を利用した利権が存在するからでしょう。
ちなみに今回のネタ本はこれです。が、この本はあまりに説明が下手で、その下手さ加減はもはや奇書の域に達しており、「ギデンズに対する不信」を助長させる可能性がありますので、取扱注意です。同じような話は別の社会学者もしていますが、どれも簡単には書いてないんですよね...。
- 作者: アンソニー・ギデンズ,松尾精文、小幡正敏
- 出版社/メーカー: 而立書房
- 発売日: 1993/12/25
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最後に一点のみ補足。ギデンズは、「誠実な開示をしなければならない」と道徳を説いているのではありません。「そうするしかない環境になりつつあるよね(後期近代社会とは構造的にそういう社会だ)」と述べているわけです。
*1:もう一つ、相手をコミットさせたいときは自分がコミットする、という方策もあります。「リフレ政策をしてみて景気が回復しなかったら頭を丸めます」みたいな。しかし結果の解釈が不可能な場合、その試みはなんだか道化的になります。
*2:社会学者でも読みやすい論文として、Redek and Susjan(2005)など。