社会学者の研究メモ

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社会学にとって理論とは何か

「理論と実証」について考えるときに、しばしば忘れられてしまうのは、理論と実証以前に、その両者に意味を与えるもっと大事なことがある、ということです。それは「問題関心」です。そして多くの実証研究は、この問題関心から出発しています。階層研究であれは公平性、都市研究であればコミュニティの価値、などが一例になるでしょう。そういった(根本的には日常の社会生活に根ざしている)問題関心があるからこそ、それに関わる問を立て、答えていくという研究活動が成立するわけです。ほとんどの実証研究はこの枠組みに沿って行われているはずです。(そうではないものはちょっと想像しにくい。)

要するに、研究は実証するために行うものではありません。理論を構築するために行うものでもありません。理論を実証するために行うものでもありません。特定の問題関心から発する問いに、説得力をもって答えるために行うものです。(だから、日常的なコミュニケーションの中では、「冷静な説得」に一番近いと私は考えます。)

ここで、実証研究を行う社会学的研究に「理論研究者」が貢献できるとしたらどういうやり方が考えられるでしょうか? 三つあると思います。

一つ目は「問題関心の明確化」。つまり問題関心をよりクリアに認識できるように概念的道具を提供する、という仕事です。しかるに、典型的な社会学の「理論」はこのことに成功してきたでしょうか? なんだかあまりそんな気がしません。社会的な問題関心をクリアにしたいのなら、社会学の古典を読む前に公共哲学と厚生経済学の本を読んでおくのがいいかと思います。免疫のない状態で社会学の古典を読むと、擬似的な問題について長い間無駄な知的労力を費やすことになりがちです。

二つ目は、「記述概念の提供」。やはり概念の提供ですが、今度は問題関心の明確化ではなく仮説構築に使う際の概念です。ブルデュー資本論や、最近のソーシャル・キャピタル論がいい例でしょう。これらは一つ目の「問題関心をクリアにする道具」と違って、様々な問題関心に対処できる汎用的な記述のための概念を提供してくれます。たとえばソーシャル・キャピタル概念は、公平性の価値関心から階層研究にも使えるし、コミュニティ衰退の価値関心からの研究にも使えます。

三つ目は、理論本来の役割である「仮説の提供」という貢献方法です。しばしば「中範囲の理論」と呼ばれたりしますが、通常科学で理論というときはそれは「仮説」なのだから、理論家であるからには立証可能な仮説を提供するという仕事を忘れるべきではないでしょう。

気がかりなのは、理論の役割について考えるときに、多くの学生は上の三つを混乱させてしまうことが多いことです。「社会調査や計量分析手法を学んできたが、理論を論文の中に組み込めていない」という心配を、学生は無条件ですべきではありません。どういう必要があって理論を「活用」するのかを意識しながら取り入れていくのが肝心なのであり(問題関心を明確に示したいのか、道具として使いたいのか、仮説なのか)、そうでないとリサーチクエスチョンを解くにあたって必要のない「理論的著作」が参照されたり、理屈の上で必然性のない概念が議論の中に密輸入されたりして、読む側が混乱するだけです。そして読む側が混乱すると、研究本来の目的である「説得」を台無しにしてしまいます。

こんなことを言っていると「理論なんて必要なさそうだから調査・実証だけやっておこう」みたいな学生が増えるという心配もあるかもしれませんが、自分の問題関心に真摯に向きあい、かつ自分の研究を他人を説得できるようなレベルにまで高めようと思っていれば、たぶんそんなことにはならないと思います。

たとえば家族研究者であれば、家事分担について研究している人は多いでしょう。この研究の問題関心をちゃんと説得的に伝えようと思えば、平等と公平の違い、公平と効率の対立、効率の定義(パレート改善)、はたまた(家事負担を社会化する)政府や(家事サービスを購入する)市場の役割などについての知識が必要になるはずです。あるいは、もしかすると家事分担はチキンゲームかもしれない(汚いのに耐えられる方が勝つ)。このときはゲーム理論を道具として使った方が説得力が増すかもしれない。

もちろん訓練の段階では、実際には観察と(明確には必要性が分からないような)理論的考察の往復運動が必要になるのでしょうが、少なくともアウトプットにおいては、本論に必要のない理論的な部分は削除すべきだと考えます。