なぜ社会学の格差研究はややこしいのか(その一)
院生に勧められて以下の論文を読んだ。専門分野(家族)のジャーナルと違って『社会学評論』は少々見落としがちになるので、こういう機会は助けになる。
内容自体は「階層帰属意識」の研究における対照的な二つのアプローチ(数理モデルからのデリベーションとデータによるその検証、および帰納や歴史的解釈を重視した「計量モノグラフ」的研究)との比較についてであった。ここでは単純化して言えば「階層についての主観と客観の関連・無関連」が解かれるべき謎となる。
筆者によれば、階層帰属意識の問題設定は「70年代の総中流から90年代の不平等へ」と変遷しており、「総中流」現象の解明(「誰が、なぜ自分が中流であると回答したのか?」)において社会学は一定程度の研究成果を残したのだが、不平等(不公平)感については、経験的に主観と客観が無関連であるせいもあって、その解明が進んでいない。つまり「過去20年間の現代日本社会においては、階層不公平感の高低について階層要因による偏りはほとんどみられなかった、つまり「だれがいったいどう考えて、社会の不公平を認識しているのか、表面上はまったくわからない」という状態になっている。
筆者自身はこの謎の解明において、数理モデルによる社会心理学的アプローチよりも現代社会論的な解釈を重視するモノグラフ的研究に期待する、と表明している。
私自身は(階層は専門ではないこともあり)どちらの立場とも言い難い。そのかわりここで、なぜ社会学においては階層についての研究が(他分野からすれば)複雑で論争的になるのかを説明したいと思う。以下は執筆中の教科書のネタの一つであるが、ここで短く紹介しておこう。
まず階層とは、特定の資源が社会の成員に不均等に分配されている状態を指している。ここで資源とは、成員によって価値付けされたモノやサービスである。経済学の場合には稀少性が価値の源泉であると考えるが、社会学の場合には意味付け過程が重視され、その分「遊び」を持たされている。つまり財の稀少性が価値を100%規定するとは考えず、
...ととらえる。もちろん価値付けは財の稀少性から完全に自由にはなりえないが*1、社会間・社会内で多少のブレが生じると考えるのである。趣味のコレクション(多数にとって価値のない鉄道模型は一部マニアにとってとてつもない価値を与えられる)は極端な例であるが、たとえば労働者階級によるホワイトカラーの地位の価値は、ホワイトカラー層自身におけるよりも低い可能性がある(「机に座ってする仕事なんてカッコ悪い」)。また、一般に女性にとって価値のある地位は、男性とは異なる。高卒女性にとっての高学歴男性の価値は、大卒女性よりも低い可能性がある(「アタマのいい男は性格悪そうでヤダ」)。北米におけるアイルランド系移民のあいだでは「代々警察職や消防士」といった家柄が多いが、後発移民としての事情があるにせよ、主観的な意味付けとしてこういった職業に付与する価値が(アイルランド系移民のあいだで)高いとも考えられるだろう。こういった意味付けは、(ブルデューをひもとくまでもなく)幼少の頃からの相互行為のなかで身につき、また日々達成されているものである。
以上は資源の「分配」が、その実社会成員による意味付けに依存していることの説明であった。これだけでも十分に複雑であるのに、社会学では資源の「配分」についてもかなり複雑な思考をする。主流派の経済学では資源配分は(最大化基準のもとで)科学的に解を見いだせるものとして考える。公共哲学や厚生経済学では、「望ましい配分」が規範理論として研究されている。これに対して社会学では、人々の意識における「望ましい配分」や「配分原理の現状判断」を調べ、それがどのように決まっているのかを研究する。たとえば「ある社会では平等原理や必要原理が望ましい配分原理になっているのに対して、別の社会では能力や努力といった公平原理が支持されている、この差はどこから生まれるのか」といった具合である。
これは、社会学者が「政策的含意」より「説明」を重視すること、および「人々の行為・意識の(歴史的)制度への埋めこまれ」を重視することの表れである、とも言える。吉川先生の学歴社会論に代表されるような「計量的モノグラフ」が「社会学らしい」分析だと感じられるのは、それがこういった特性に沿ったものであるから、という理由もありそうだ。
(続く)
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