社会学者の研究メモ

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「家族福祉論の解体」感想

先日の研究会にも参加してくれた久保田さんの最近の論文です。

久保田裕之、2011、「家族福祉論の解体」『社会政策』3(1): 113-123.

非常に示唆的な論考で、興味深く読みました(今年一番の収穫だったかも)。私なりに内容をまとめると...(下手なまとめかもしれませんが...)。

  • 家族を作ることが当たり前であったのは過去の話、結婚するかしないか、子どもをつくるか作らないか、個々人が選んでいく時代になっている。
  • それなのに、福祉供給の対象を「家族」に設定すると(つまり「家族福祉」)、あえてその選択をしなかった人に対しては不公平だ、ということになる。
  • 「じゃあ福祉供給を個人単位にすればいいじゃない」と言いたくなるかもしれないが、そうはいかない理由がある。家族を作るか作らないかにかかわらず、人が生活していく上で必要である条件はあるはずだから。たとえば「(非対称的な)ケア」。誰だって子どものころは他人(親)から一方的に世話になって育ってきたのだし、この先の人生で(障害や痴呆など)非対称的なケアを必要とする可能性は十分に考えられるだろう。

実は事前にご本人とメールのやりとりをしておりまして、ここまでのまとめは(おおむね)合っている、ということでした。これを受けて久保田さんは、「依存関係のケア」が個別の場面で発生しているかどうかを、政策的支援の基準にするのが適切だろう、という結論を導かれています。

したがって恋愛関係におけるメンタル・サポートなどは、ギデンズが描いているように基本的に「自立的で対称的」なものなので、その限りでは「範囲外」ということになります。また、家族やコレクティブハウス等の「ケア・ユニット」が支援対象となるのではなく、そこに依存的ケアが含まれているかどうかを、個別のニーズとして把握して、それがあると認められれば支援対象となる、ということになります。

最初私は、家族やコレクティブハウスなどを含む「ケア・ユニット」が公的支援対象となるという結論かと読んでしまったのですが、そうではなく、非対称的ケアの実践(あるいはそのニーズ)そのものが援助対象となる、という見解のようです。

(久保田さんのご著書↓)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

以下、感想です。

まず考えたのは、「ケア」の概念の範囲です。久保田さんは主に痴呆や子どもなどを想定してられるようですが、たとえば「対称的ケア/非対称的ケア」という区別は日常生活者にとって一般的に共有されている言葉ではないので、EM的手法を使えばより精緻に分析できそうな気がします。(結果、「非対称」より適切な記述が見つかるかもしれない。)

次。多かれ少なかれ制度化されたケア・ユニットではなく、個別のニーズを見るべきだというのは久保田さんの議論の核心ですが、考えてみればどうして私が最初それらを混同してしまったのか不思議です。思うに、私が長い間考えてきた問いに関わるので、自分なりの枠組みに間違って引きつけて理解してしまったからじゃないかと思いました。

その問いとは「恋愛や結婚がなぜ公的支援の対象にならないのか」という問いです。そしてこの問いは「恋愛や結婚によって満たされる欲求は、なぜ政府や市場によって提供されにくいのか」という問いのバリエーションです。

「非対称的ケア」の存在は一つの答えだと思います。誰しも子どものころは非対称的なかたちでケアを受けないと生存不可能な状態であったし、またこの先そういう状態になる可能性は否定できません。したがってそういったケアに公的支援を与えるべき、という社会的合意が作られやすいでしょう。逆に自発的に構築される親密な関係性(ギデンズのいう純粋な関係性)は基本的に自立した個人どうしの関係なので、それが得られないことに対する公的保障の合意が作られにくい、ということになります。

私自身は、ある状態に置かれていることが自己責任かどうかは、実際にはもうちょっとアドホックに決まっているんじゃないかと考えています。ある人が「結婚できない」ことは自己責任かもしれませんが、そうではないという主張も理屈上は成り立ちます。たとえば「たまたま男子校に進んで、そのために女の子と交流する仕方を学べず、そして理系に進んで、さらに女性の少ない職場に入って...」といった要因の蓄積をすべて自己責任で片付けてよいものかどうかは、異論の余地があるでしょう。「無知のベール」のもとでじっくりと討議すれば、もしかしたら「そうか、自分も同じ境遇になっていたかも...」と思う人が出てきても不思議じゃありません。

そもそも公的保障の範囲は、実際には、それぞれの社会(国や自治体)で統一的な合意が得られないまま「エイ」っと確定されています。たとえば失業補償などは、医療保険よりもう少しコントロバーシャルでしょう。医療や介護の補償範囲にしても、かなりガチャガチャした議論のなかで無理やり制度化されている部分があるでしょう。

親密性に話を戻します。議論の余地はあるはずなのに、親密な関係性を築くことができないことから生じるロスに対する公的補償(あるいは支援)があまり議論されないのはなぜか。

もっともシンプルな答えを与えるとすれば、「金銭補償は額の合意が作りにくく、実物(サービス)支給は効率が悪いから」となるでしょうか。後者はどういうことかというと...

親密性から得られる心理的利得(相手が自分を理解してくれる、話を聞いてくれる、好きでいてくれる...まとめて「親密財」と呼んでおく)については、サービスを与える側は、サービスを受ける側の性格や置かれた状況を個別に詳しく理解していればいるほど、より効率的にそれを与えることができる、という側面があるのでは、と思います。そういう想定を置くと、親密財の供給は、市場や政府などより親密な関係においてより効率的に提供される、ということになります。

(筒井の「親密性」に関する論考↓)

親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)

親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)

いわゆる「非対称的ケア」についても、親密な相手にケアされることによるエクストラの利得があるのでは、と考えています。その度合いに応じて、ケアは現実問題として結局何らかの形の「ユニット」を形作る、と説明することができるのではないでしょうか。(もちろんケアを親密なユニットから受けることには、はっきりとしたデメリットもあります。)

「非対称的ケアを個別のニーズとして把握する必要性を説く」ことと、「それが現実問題として親密な関係のユニットを形作る際のしくみを議論する」ことは、特に衝突しない話ですので、以上の論述は久保田さんの議論に「接木」したものです。

ただ、公的支援をめぐる合意のあり方については、私はもう少し突っ込んだ検討が必要になるだろう、という感想を持ちました。ケアのやり取りを巡っては、様々な社会で、公平性と効率性の観点から様々なあり方が実現されており、また模索されているのだと考えています。たとえば最も「対称的」だと考えられている恋愛関係にしても、対称的ではあるが不公平な(ある意味では公的保障がないことが不思議な)親密財配分システムだという理屈が成り立つと私は考えています。

毎年毎年、クリスマスに多くの人が深刻に悩む制度なんて、どこかに欠陥があると思いませんか?