低成長経済化における福祉国家戦略
以前取り上げた、
Esping-Andersen, Gosta, 1996, "After the Golden Age? Welfare State Dilemma in a Global Economy" in Gosta Esping-Andersen (ed.), Welfare States in Transition. Sage Publications.
だが、かなり断片的なまとめになっていたので、ここでもう少しだけ詳しめの紹介をする。個人的な感想だが、この論文は記述が散漫で、意図を拾いにくいところがある。以下のまとめも、重要な論点を拾い損ねている部分があると思うので、その点割り引いてほしい。もちろん評価にあたってはもとの文献を読む必要がある。ここでの紹介は、あくまで参考程度に。(また、邦訳は手元にないので参考にしていない。)
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福祉国家はいま、かなり難しい局面にさしかかっている。なぜかというと、戦後のような恵まれた経済環境をあてにできないからだ。戦後は高い経済成長率を背景に、先進国では経済的平等と完全雇用を両立させることができた。しかしいまはそんな時代ではない。所得の平等と雇用はトレードオフになりがちだ。(たとえばアメリカの戦略は、平等を犠牲にして---低賃金労働への需要を喚起して---雇用を確保しようというもの。)
経済のグローバル化のなかで賃金の均衡がすすみ、それに応じて福祉供給体制も均一化していくのではないか、という見方もありうるだろう。でも私たちはそう考えていない。それは、各国の制度の多様性があるからだ。
"One of the most powerful conclusions in comparative research is that political and institutional mechanisms of interest representation and political consensus-building matter tremendously in terms of managing welfare."(p. 6)
たとえばヨーロッパの国の一部では、コーポラティズム的体制(※著者はこの言葉はここでは使っていない)によって賃金抑制の合意を達成し、雇用を創出してきた。他方でそういった体制が不完全な国では、雇用と経済効率は容易にゼロサム関係に陥る可能性がある。
"Hence, a favourable institutional environment may be as capable as free markets of nurturing flexibility and efficiency." (p. 6)
ともあれこういった制度的特性が、福祉国家の現在における多様性を説明していると言えるだろう。
さて、福祉国家が直面している問題をもうちょっと整理してみよう。大きく分ければ以下の二つになる。
- 福祉国家に内在する要因:既存の社会保障プログラムでは対処できない新しいリスクやニーズがでてきた。多様な家族、専門的に断片化していく職業構造、多様化するライフコース、など。
- 外在的要因:経済の低成長と高齢化。
このなかで、高齢化は深刻な問題には違いないが、自動的に危機を引き起こすわけではない。理由は以下のとおり。
- 1%程度の経済成長で高齢化による支出増をカバーできるというOECD推計もある。
- 生産人口を増やす政策(高齢者と女性の雇用)で対処できる側面もある。
後者を実現できるかどうかは、福祉体制のあり方しだいである。たとえば高所得者と低所得者の利害を分断させてしまうと、福祉供給は維持できない。(高所得者の税逃れや低階層労働者のインフォーマル経済への逃避が生じる。)女性の雇用についても同じで、母親に対する雇用支援が必要になってくる。(※イタリアなどは両方ともに失敗しつつある。)
(※ここから少し中略。社会保険のprivatizationがうまくいかない例など興味深い話もあるので、ぜひもとの文献を御覧ください。)
(先に述べた理由から)1970年代以降、福祉国家戦略は多様化してきた。主に三つのルートがある。
この方策では低成長下で雇用を確保しようとしたので、どうしても公的セクターの雇用吸収に頼ることになった。この戦略にはいいところもあったし、悪いところもあった。低スキル労働者の貧困化(とくに女性の)を防いだのはよかった。しかし他方で、極端な性別職域分離を生み出してしまった。スウェーデンでの(出産等を理由にした)欠勤率は他国と比べて極端に高いので、私的セクターでは男性雇用への選好が生じている。もうひとつは低スキル労働者の割合が高くなること。実際、デンマークやスウェーデンの低スキル労働者の割合は(この点では評判のよろしくないあの)アメリカよりも高い。
他方、北欧諸国でも福祉プログラムの切り詰めは進んでいるが、結果的にアメリカ的方向に進むというほどではない。また、これらの国での社会的プログラムの顕著な特徴は「社会的投資」の理念にある。具体的には、高齢者よりも若年層への福祉供給(による生産力の維持)を重点化する、ということだ。そしてこういった方策が功を奏するかどうかは、以前の輝かしい合意形成の組織化が再編できるかどうかにかかっているのであって、政府による福祉供給を解体できるかどうかにかかっているのではない。
一般にはアングロサクソン圏の国々(アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)がこれらに属すると言えるが、実際には多少のブレがある。たとえばオーストラリアの自由化路線は労働組合との調整によって進められた、カナダではアメリカほど雇用保険プログラムが縮小しかなった、などなど。
この戦略での差し迫った課題は、貧困層の固定化である。階層移動のチャンスは個人がスキルを持っているかどうかにかかっており、低スキル労働者は貧困の罠に陥りやすい。またシングル家庭では子育てによる別の貧困トラップがある(※援助が十分でないと子どもを預けるコストが負担できず、したがって正規雇用に就きにくくなり、さらに貧困が進む、というアメリカによくみられる悪循環)。こうみてみると、スカンジナビア的な「社会投資」に勝る方策は、やはりないのではないかとも言いたくなる。クリントン政権下でみられたような職業訓練への投資が、雇用の柔軟化の成否を握っている。
- The labor reduction route(労働力縮小ルート):
北欧諸国が雇用減少(失業)を公的雇用創出と職業訓練で乗り切ろうとし、アメリカがそれを規制緩和(低賃金労働の創出)で乗り切ろうとしたのに対して、大陸ヨーロッパ諸国では、労働市場からの退出を促す(助成金等で早期退職を促進する)ことで乗り切ろうとした。
結果は、労働市場の分断(主に男性の安定雇用層と女性および若年層の不安定雇用)である。この部分は以前の記事で紹介したので説明を省く。
また、このあと福祉後発圏である東アジア、ラテンアメリカ、そして旧社会主義圏における見通しの話に移るのだが、この部分はまた機会を改めて紹介する。
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全体を通した感想だが、エスピン−アンデルセンは北欧型の「社会投資」モデルに共感的であり、保守主義的戦略(雇用縮小方策)に懐疑的であるのは間違いない。景気動向の影響を取り除いてみた時の経済パフォーマンス、政府財政、少子化の度合いなどをみると、確かに全般的傾向として保守主義陣営(フランス圏を除く)の分が悪いことは疑い得ない。エスピン−アンデルセンのモデルにとって多くの経済政策(たとえば近年のドイツの好況を説明するEUの貨幣・金融政策)や景気循環は外生的であり、評価にあたってはこういった要因に起因する「ブレ」を割り引く必要もある。
次に、この論考自体は制度とマクロデータに基づいた分析であるのだが、1990年代後半からのマイクロデータによる実証研究の結果をある程度予測できていることは、彼が考える福祉レジームモデルの有効性をある程度証明したといえるだろう。とはいえ「当たっている部分もある」という程度で、特に東アジア的レジームに関する予測に関しては現実との整合性を確かめる作業が必要かもしれない(日本のデフレに起因する不景気などもありやりにくい面があるが)。
最後にもう一点、福祉を「公的に供給するのか私的に供給するのか」という政策選択の効果に関してはかなり内生的に(少なくとも他要因との交互作用を想定して)考えているのも特徴である。たとえば新自由主義的政策として(アメリカのように)年金制度を私的セクターに移行させたとして、そこで起きうることは(そうした保険を手放したくない人々による)既得権強化、雇用の硬直化かもしれない。となれば、場合によっては福祉を公的に供給したほうが雇用は柔軟化するかもしれない。政労使の合意システムがない社会であればなおさらゼロサムに陥る可能性が高くなる。よって、あるサービスを公的セクターで行うのか私的セクターで行うのかと、全体社会の生産性の関係は単純ではなく、制度要因(合意システムの有無や法制度)に媒介されている、という見方がなされているといえる。