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社会学者の研究メモ

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昔の講義録:「自己責任」について(2):「自己選択」と「自己責任」

このような例は複雑に入り組んだ現代社会においては枚挙にいとまがないだろう.にもかかわらず,現代はよく「自己選択・自己責任」の時代だと言われる.自分のことは自分で選択でき(あるいはしなくてはならず),その選択の結果を自分の成果として享受することができる(あるいは結果の責任を負わなくてはならない)ということである.

しかし上述のように,一見分かりやすいこの自己選択・自己責任の原理を,文字どおり納得してはならない.まず,厳密に言えば現代社会は,個々人が自分のあらゆる選択の帰結をすべて自分のものとして帰属するようにはなっていない.事態はもっと複雑である.ここではもう一つ別の例を出して,自己選択・自己責任の原則のおかしなところを説明してみよう.

ある人が仕事の外回りの途中でたまたま立ち寄ったレストランで食事をし,そこで食中毒にあって入院してしまったとしよう.仕事どころではなく,ライバルに大きく水をあけらてしまった.

確かにこの人は「自分で」レストランを選んだ.しかしその選択の帰結(食中毒)はその人の責任であろうか?ふつうはそうはならない.食中毒の責任は食べ物の衛生を管理しているレストランにある,とされる.したがってこの不幸な人物はうまくいけば仕事を休んだ分の損害を休業補償としてレストランから受け取ることができるだろう.もし示談がうまくいかなかった場合,法律的に強制することもできるだろう.

この時点で,選択とその結果の結びつきは,「自分の選択の帰結は自分のせい」といった単純なものではなく,社会通念上の,あるいは法律的な取り決めに依存しているということが分かる.「世の中自己選択・自己責任の時代になってきた」ということは,この社会的な取り決めが徐々に変化している,すなわちこれまでは個人がリスクを背負うことがなかったこと(たとえば年金の運用)についても,個々人で考えて行動してもらうことになるよ,という相対的な変化を指しているのである.

もちろん,この社会的取り決めによって選択とその帰結を結び付けることに対して,個々人がすべて納得するとは限らない.上の例だと,食中毒にあった人は社会的取り決めに応じて医療代と休業補償を受け取ったはいいが,休業補償というのはせいぜい給料を日割りにした分の額にしかならないので,ライバルにつけられた差は取りかえせないだろうし,医療代をもらったといってもその他のコスト(家族全体がとられる時間等)までは請求できないだろう.通常はその分を慰謝料として一括して請求することになるのだが,ライバルとの差や他の家族のコストなどは算定しにくいため,慰謝料の額についてはたいていの人が納得できるようにはならないのが普通ではないだろうか.

一般的にいって,社会が複雑になればなるほど,選択とその帰結の結びつきを判断し,適切な評定を行うことは難しくなる.というのは,複雑な社会においては,ある個人が選択したことが数多くの他の人に影響を与えるからである.しかもその影響はたいていの場合微妙なものであり,はっきりと「これは誰の責任,あれは誰の責任」というふうに明確化することができない.食中毒を起こしたレストランの店主にしても,被害者一人一人についてその微妙でしかし多額になるかもしれないような損害について逐一賠償することはできないだろう.被害者にしても,自分の受けた細かな微妙な損害を文書の形で証明することには莫大なコストがかかるため,適度な慰謝料で手を打つのが賢明だと判断するだろう.