社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

昔の講義録:「自己責任」について(1):行動とその帰結における責任の範囲

「個人と社会にとっての合理性が異なる」ということの帰結は,全体社会の側から見れば「資源配分の非効率性」と考えることができる.個人が全体社会のニーズに合わせて行動すれば,より無駄が少なくなり,社会に属する個人全体の効用は上昇する.逆にこの調整がうまく行かないと,個人は無駄な努力を積み重ね,社会にとっても資源の無駄遣いが生じることになる.

しかし同じことを個人の視点からみるとどうなるだろうか.

ここで話を分かりやすくするために,Aさんという個人に登場してもらおう.Aさんは金融に興味があったので,大学時代は金融を専攻し,大変な労力をつぎ込んで立派な卒業論文を書き上げ,その成果もあって世間一般で安定していると言われているF銀行の融資部に就職した.Aさんは就職してからも有能ぶりを発揮し,次々と大口融資を成功させ,将来の幹部候補としてみられるようになった.ところが入社して3年後,F銀行B頭取を筆頭とする上層部の不祥事,金融の制度改革の影響などがあって,F銀行は倒産してしまった.つまりF銀行は社会的に必要とされなくなった,ということである.

F銀行の倒産は,当然Aさん自身の責任ではない.一介の学生であったにすぎないAさんにF銀行の今後の苦境を見抜くことなどできるはずがない.とはいえ,AさんがF銀行を選択しなければ避けられたのであるから,Aさんの主体的な選択の帰結であることには間違いない.したがって倒産によるAさんの損失は,基本的にはAさんがかぶることになる.Aさんの前途洋々の将来にケチがついたのである.

このケースは,Aさんの(学生時代の)選択能力,ここでは予想能力を超えたところでの帰結(F銀行の倒産)をAさんが引き受けることになったという例である.

個人の選択能力 < (個人とは関わりのない)社会的な帰結

反対に,不祥事を起こしてF銀行を倒産に追いやったB元頭取についてはどうであろうか.Bとて,倒産の責任を取る過程で報酬を失い,また少なからず私財を失うことになった.しかしそれらを合わせても,おそらくF銀行前社員が被った損害,そして銀行の社会的な信用の毀損にともなう信用コストなど,倒産に伴う全損失のほんの一部にも及ばないだろう.要するに,B頭取には,Bが責任を取って補償(埋め合わせ)することのできる範囲以上の選択が任されていたのである.

Aさんの例は,本来ならばAさんが引き受けるべきではない損害をAさんが引き受けざるを得ないというパターン,B頭取の例は,本来ならばB頭取が引き受けるべき損害をB頭取が引き受けることができないというパターンを示している.