社会学者の研究メモ

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社会学における「理論の実証」

(以下は二〜三カ月前に書いたメモですが、寝かせておいてもあまり意味がなさそうだし、稲葉先生もシノドスの論考を公開されたのでいいタイミングだと思うのもあり、ちょっと手を入れた上で公開します。)

社会学の問いの特徴

私は、学部のゼミでは(大学院でも基本的にはそうだが)、いわゆる「標準的な研究プロセス」に従って個人研究をするように指導している。標準的な研究プロセスとは、問いを立て、それに対する理論仮説をデータ(質的・量的)で検証するという手続である。

その際、しばしば「社会学的な問いの立て方」というものを説明する必要が出てくることがある。学生は基本的に社会学の授業をいくつか受けているので、そうしたほうが効率がよいからである。それに、意外に「社会学的な問いの立て方」を説明するのは簡単なのだ。

それは、「注目する現象/人間行動が、性別、年齢、学歴で違いを持つかどうかをまず考えてみたら?」というものである。たとえば「友人の作り方」に関心を持つ学生がいるとする。典型的にはその学生は、人間のパーソナリティに注目しようとする。大学生の多くは年齢的に多感な時期であり(40代のオトナからすればかなり些細な人間関係で大いに悩んでいる)、どうしても性格や心理というものに注目しがちであり、社会構造的な視点を取れないことが多い。そこで、「そもそも現実問題として男女差ってあるでしょう?なぜだと思う?」のように切り出し、目を向け変えるのである。

社会学の計量分析では、性別、年齢(/コーホート)、学歴、そして職業は、説明項の重要な部分を占める。つまり、経済学者と違って意図的に設定される政策の影響を見るのではなく、十年単位でしか変化しないような長期的(かつインフォーマルな)制度に注目する傾向が強い。そして、性別や父職といった外生要因の効果に関心があるので、交絡/内生性によるバイアスについては相対的に無頓着になり、かわりに外生要因を媒介する要因による「説明」が計量分析の主な作業となる。「所得に対する職業効果の一部は性別効果によるバイアスであった」ではなく、「所得の格差に対する性別の効果の一部は学歴で説明できる」というストーリーを作るのである。

どういう制度に注目するのか

現にあるこの社会学の特徴は、制度という概念についてのスタンスの違いから説明できる。制度や規則については、経済学では個人の行動を制約する(それによって市場の失敗をカバーする)側面を強調するのに対して、社会学者は「規則や制度がなければそもそも『個人』が存在しないし、個人が思考したり行動したりすることさえできない」と考えるであろう。

(↓河野先生による分野横断的視野からの制度の考察。)

制度 (社会科学の理論とモデル)

制度 (社会科学の理論とモデル)

さらにいえば、多くの社会学的研究において「理論(モデル)を検証(実証)する」ことがそれほど意味を持たないのは、(サールの言い方だと)構成的規則の記述をしているからである。人々が実践において参照している規則については、研究者はさしあたっては記述することができるだけであって、研究者が立てたモデルとの乖離をそこに見出したりできるのは、そういった記述が成立するからである。チェスのルールを合理的に「改訂」できるのは、それに先立ってルールによってある行動がチェスというやりとりとして理解されているからである。

(↓筒井による、社会学における制度の論述。)

制度と再帰性の社会学 (リベラ・シリーズ (8))

制度と再帰性の社会学 (リベラ・シリーズ (8))

比較的長い(歴史的)スパンで制度の変遷をみる傾向が社会学にあるのは、政策ですぐに変更できる制度ではなく、変化しにくい構成的制度、たとえば世代を超えた階層構造や家族制度に関心がもたれやすいからである。個人が家族を形成する以前に、個人は家族の中に埋め込まれて形成される。そしてその家族もまた、無数の長期的制度によって「構成」されている。社会の基礎的構成単位であると考えられやすい「個人」は、以前には現在と同じようなかたちで存在しているのではなかった。

フーコーの研究の一部が社会学者の間で根強い人気を持つ理由もここにある。社会学が伝統的に「無意識の構造」や「社会構築主義」といった科学的に正当化することが難しいアプローチに引き寄せられやすいのも、このことの裏返しであろう。構成的制度は「見えにくい」がゆえに、その把握においてショートカットを使いたくなる誘引は常にある、ということだろう。

経済学の分野でも、長期的変動に関心を持つ研究者の間では、制度に関する見方が社会学に近いものとなる。グライフらによる経済学的歴史/比較制度分析の多くが(合理的個人を構成要素とする)繰り返しゲームの理論に依拠しているということは、裏返してみれば制度の生成自体は多かれ少なかれ自生的なもの(少なくとも自己執行的(self-enforcing)なもの)として説明される、ということである。主流派の経済学が「制度は合理的個人が取引する市場の失敗に対処するための事後的な仕組み」だと考えるのだとすれば、比較制度分析では制度は「(特定の形の)取引自体を可能にする」構成的な位置づけを与えられている。「市場もまた制度」ということである。

比較制度分析・入門

比較制度分析・入門

比較歴史制度分析 (叢書 制度を考える)

比較歴史制度分析 (叢書 制度を考える)

「理論」という社会記述の仕方

ここで、自生的・構成的な制度については研究者は研究プロセスを通じてただ単に「記述」することしかできない、というわけではもちろんない。たしかに、理論モデルはそういった記述によって成り立っており、それを無視してモデルを構築することはできない。それでも理論構築が制度の記述とは相対的に独立した作業として存在しているように見えるのは、ひとつには、そうすることによって理論から---通常の思考では思いつきにくいような---意図せざる結果やデリベーション(派生体)を取り出すことができるからである。モデルを数理的に表現するのはそのためであって、何も「対象の普遍的な構造を表現」しているからではない。

マクロ経済学のモデルは、数理的に表現される理論の独自の意義をよく表している。そういったモデルは社会のある側面をかなり的確に記述するものであり、そのおかげでモデルに則った介入(財政・金融政策)が予想通りの効果を持ちうることも多い。しかしその成果を導くためには、人々の行動を観察して意味的に理解すること以上の(言ってみればかなり不自然な)作業を必要とする。

私たちは、学問的な営みをしているときではなくても、(数理表現をしているわけではないが)社会の理解枠組みをいくつも持っている。そしてそういった「日常生活の理論」は、それを参照すること(それをもって生活に「介入」すること)によって日々その効果が検証されているようなものである。社会科学の理論もその延長上にあるものであって、それ以上の特権的な地位を理論に付与しようとする向きもあるが、それは無用の試みであろう。

計量分析において「仮説が支持されない」とはどういうことか

次に、計量分析(特に回帰分析)は基本的に制約的制度の効果(制度による介入の因果的効果)を測定することに適しているとはいえ、構成的制度についての分析ができないというわけではない。社会学での典型的な仮説は、「日本では学歴や職種等の媒介要因で説明できる部分を除いても、女性は男性よりも所得が低い」のようなものである。もし性別による所得の差が統計学的に認められた場合、それはもちろん到達点などではない。いまだに考慮されていない媒介要因(組織内の差別意識など)によってそれをさらに説明していくことが目指されるのである。

最終的に性別という外生変数の効果がゼロになったときに説明は完了するが、実際には性別と所得を媒介する仕方はそれこそ無数にある。仮に性別と所得の関連性のほとんどが学歴によって説明できたとしよう。すると、今度は性別が教育達成(学歴)に影響する仕組みを説明するために、さらなる媒介要因の探求が始まることになる(実際にそういう研究はすでに無数になされている)。

そういった因果の連鎖は、当事者からして(したがって研究者にとっても)「意味が通じる」ものであり、そういう意味では構成的制度の記述から独立して行われる作業というわけではない。他方で実際に計量分析をやってみるとわかることは、意味的に理解できる説明の多くが、数字の上では微々たる(最悪の場合は偶然と区別できない)現れ方しかしない、という現実である。要するに「仮説が支持されない」のである。

「仮説が支持されない」とは、少なくとも社会科学的計量分析の分野においては、関心を持つ要因と同方向の効果を持つその他の要因の効果が大きいので、観察の際の偶然と関心要因の効果が区別できない、ということがひとつ(誤差および共線性の問題)。もうひとつは、重要な抑制要因を観察できていない可能性である。いずれにしても、仮説が支持されないということは、注目する部分、対象の見方を変更する必要を分析者に示唆する。

したがって支持されなかった仮説は「理論として意味をなさない」から捨てられる、というわけではない。「もっと他に重要な要素があるかもしれない」「観察されていないプロセスによって当初の意味連関がデータに現れていないかもしれない」と理解すべきなのである。

とりあえずの結論のようなもの

  • 理論モデルの構築、対象の数量的表現の根底には記述できる(理解可能な)意味連関があり、したがってこれらの作業は意味連関を前提として行われる。(ここまではデュルケムの『自殺論』をネタによく指摘されていること。つまり「自殺をカウントするためには、それに先立って自殺というものが概念的に記述できるのでなくてはならない」。)
  • 他方で理論の数理的表現は、通常では理解しにくい意味連関や「社会の記述」を導く手続きとして利用できる。(しばしば「意図せざる結果」「合成の誤謬」などと言われる。)
  • 計量分析も、仮説の検証を通じて、(より重要かもしれない要素への)視点の転換や表面的には観察しにくい意味連関に目を向けさせる手続きとして利用できる。

以上は断片的な考察だが、理論構築や計量分析の「意味」がわからなくなったら、「それと似たようなことは学問の文脈でなくとも行われている」ということをまず想起し、その上で学問という制度の独自性を考えていくと、よりうまく整理できるように思う。たとえば、計量分析のメタ理論を構想するくらいなら、「私たちは日常生活において因果関係をどのように理解しているのだろうか?」ということについて考えてみるほうが、少なくともとっかかりとしてはよほど実りがありそうである。