社会学者の研究メモ

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「当たり前を疑う」ことの社会学

「当たり前を疑う」ことが社会学の目的であるように語る人たちがいる。私自身は、これってなんだか(悪い意味で)ものすごく構築主義的な発想だなあ、という感想を持ってしまう。それに疎外論とか物象化論の匂いもして、かなり警戒してしまう。科学的営みが「トリビアの泉」以上のものであるのなら、「当たり前を疑う」ことは全く必要ないか、あるいは必要でも単なる出発点であるべきであって、決して到達点ではない。せいぜい(研究方針ではなくて)研究対象にはなるのかもしれないが、そんなこと題材にすることに大きな意味はあるのかな?

こういう議論は構築主義的発想との争いの蓄積から言ってエスノメソドロジストに任せておくというのがいいのかもしれないが、ちょっと別の視角からコメントすることもできそうだ。

たとえば「当たり前を疑う」ことにはコストがかかるのだが、そういったコストに見合った見返りがあるのかどうか。そういったコストがあるからみな「当たり前」にしたがっているという面もあるはずだ。「当たり前を疑う」ことにはかなり特殊な動機が必要なのだ。

それに、「当たり前を疑う」ことそれ自体は何も明らかにはしていないだけに、そういった方針は必ずといってよいほど道徳的なバックアップを必要としている。その証拠に、「当たり前を疑う」派の人はたいてい(ジェンダーの)不平等とか差別を題材にしている。しかし「リサーチリテラシー」や「メディアリテラシー」がそれ自体は科学的営みではないのと同じで*1、何気ない日常に差別がひそんでいることを明らかにすること自体はそういった差別の仕組み・存立条件を解明することにはあまり貢献しないものだ。

最後に「当たり前を疑う」病に効くクスリ候補。

いちどはまるとなかなか抜け出せない、それがこの病の特徴なのかも。

*1:もちろんリテラシー「学」はありうる。