知識は匿名であるべし、しかし...
テキつくりシリーズその2。
社会学の世界も、徐々に「誰々研究」の世界から脱却しつつあるような気がします。
これ自体は「進んだ科学」への第一歩ですし、健全なことでしょう。知識とそれを提供した人とは原理的に切り離し可能ですし、切り離すことによるメリットも大きいです。理想的な討議では、ある命題があって、その命題とそれを取り巻く仮説なりについてほぼ全員が理解でき、それ以外の立証できない知識をできるだけ排除して行われるものでしょう。ここではフィールドワーカーは「私は実際に見てきたんだからあなたの反論は成り立たない」ということはできませんし、理論家(というか学説史家)は「誰々をもっと読みなさい」という空虚な助言をすることができなくなります。後者の場合、「読みなさい」ではなくて、自分の理解している内容を簡潔にその場で説明することが求められるわけです(むろん現実としては、そんな時間的余裕のある討議はあくまで理想でしょうが)。
知識とその提供者を切り離すことのメリットとして、もうひとつ、知識を扱いやすく流通しやすいものにする、ということがあります。ある知識が「ウェーバー」にくっついている限り、その知識を扱う資格を得るには下手をするとウェーバーの原典から読まなくてはならなくなります。これは希少な研究資源の無駄遣いです(きっぱり)。研究者はあくまで、一次資料と研究成果の間にいる加工メカニズムのワンピースにすぎませんし、そうあるべきです。一次資料の検討の可能性をすっとばして「ウェーバー」の主張そのものについて云々する論争などよくありますが、全体の効率性を考えると意義が分かりません。
とはいえ...とここからが言いたいことなのですが、知識と人を結びつけることには何かしらの合理性もあるわけで---だからこそ「ウェーバー研究」や「ギデンズ研究」をする人が存在する---ポジティブにこれを考えないといけませんね。現在のところ---一連の知識の「ラベル」としてお手軽に用いることができるという合理性以外に---メリットが把握できていないので、おいおい考えていこうと思っています。