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社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

「個人と社会の関係」を別角度から考えてみる

この記事をおもしろく読ませていただいたので、個人的に引き延ばしてみたくなりました。(実は現在社会学のテキストブックを書いており、そこに盛り込むはずの内容です。)

全体最適 vs. オレ様最適(Chikirinの日記)

一読して経済学の話かと思って聞いてましたが、そうではないみたいです。(悪名高き(?)はてなブックマークコメントをみてもなぜか経済学という言葉は出てこない。)

研究者の世界でも、研究があまりに個人的関心(たとえば知的好奇心)に偏っているように思われると、指導教員から「あなたの研究の社会的意義はなに?」と問われることはあると思います。しばしばこの二つは(上記の記事のように)対立するものとして考えられることがあります。

しかし実は社会的関心(社会のあるべき姿はこれこれであり、この研究はそういった価値関心からのものである)と、個人的関心をはっきり区別することは意外に難しいです。「マスコミに就職したい」というのは個人的関心でしょうが、ちょっとひねると異なって聞こえます。たとえば「優秀な学生は一流の企業(たとえば大手マスコミ)に就職した方が社会的に望ましいはずだ。そういう社会はいい社会だと思う。ところで私は優秀なので、大手マスコミに就職すべきだと思う」のように言うと、とたんに社会的価値関心の表明になります。

実は、個人の関心と社会のあるべき姿への関心は、何も常に対立するものではありません。たいていの個人的関心はその背景にそれに合致した社会的価値をバックアップとして持っています。だからこそ、個人は自分の希望を(大きな反発を受ける危険を考えずに)表明できるわけです。要するに「常識にかなったことを言えば非難されない」ってことですね。

とはいえ、他人の関心や意見に違和感を覚えることがしばしばあるのも事実でしょう。これは、(あるべき社会についての)意見が異なっていることで生じる違和感です。上記のマスコミ志望の学生の意見表明に対して、「格差を是認している」として違和感を覚える人がいてもおかしくはないでしょう。ここでは格差をよくないものとする平等主義的価値観と、(努力が報われるべきだという)公平性あるいは(社会全体の効率性を優先すべきだという)効率性の価値観が対立しています。

非専門的な日常会話(あるいはマスコミ)のレベルでは、これらの社会的価値観は「違和感」を生むくらいですみます。特定の社会的価値に基づいた社会をモデル化したりせず、どこかであいまいに考えているからです。こういう場合、違う価値観を持つ人に出会っても「あ〜、アイツってそういう考え方するのね」という具合です。しかし専門家がこれらをつきつめていくと、日常感覚からはかけ離れた帰結が生じます。たとえば経済学的には(一定の条件のもとでは)「盗み」は必ずしも悪にはなりません。ただ、単なる所得移転なのでプラスにもなりませんので、推奨もされません。他方で平等主義をつきつめれば、盗みは完全に正当化できます。もしそこに一抹の後ろめたさを感じるとすれば、それは他の価値観(たとえば公平性、「盗みはフェアじゃない」)にも同時にコミットしているからです。

一般的に人間は一人の心の中にこれらの価値観をあいまいに併存させており、そのために制度はモザイク状になっています。したがってさんざん平等を説いている人が同時に「盗みはよくない」と考えますし、制度レベルでも、ある価値に基づいた最適化が他の価値のために実現できない、ということが生じます。

と、このように考えれば、世の中には「全体を優先する人」と「自分を優先する人」の二種類がいるわけではないことが分かるのではないでしょうか。どういった社会的価値から見ても正当化できないような個人的関心に基づいた行動をすることは、小さな子どもが無邪気に行動するケースなどを除けばそれほど多くないでしょう。(不穏当で怖い意見ですが、急進的な環境主義からすれば人減らしまで正当化できてしまうし。)

ただし、価値を経済学のように効率性に置いてモデル化した場合、こういった対立はしばしば頻繁に見られるものになります。このことについては次回。