社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

『社会を知るためには』補論:圧縮近代と「噛み合わなさ」

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

  • 作者:筒井淳也
  • 発売日: 2020/09/09
  • メディア: 新書

(前回の続きです。本は初学者向けですが、「補論」シリーズはそうではないかもしれないので、ご理解ください。)

社会の各部分の「噛み合わなさ」を考えるとき、私自身は以下のようなリストを思い描いている。(このリストは本では示していない。)

  • 政策・プログラム:意図的な目的に沿った介入。
  • 構造要因:経済(産業・職業・雇用)構造、人口構造、家族構成など。結果的にもたらされている状態。
  • 価値観・態度:人々が望ましいと考える状態。

社会学や近隣分野では、しばしばこれらの要素の絡み合いによって「社会を記述」する。たとえば(第一次)人口転換の先の出生力の低下についていえば、「経済成長の鈍化と産業構造の変化が女性の労働力参加をもたらし、出生力の低下圧力がかかったが、男女均等の価値観の浸透もあり、両立支援政策・プログラムの展開によって出生力が回復した国があった」というふうになる。

出生力や女性労働については、構造・政策・価値観がゆっくりと噛み合いながら進んできた北欧・西欧諸国に比べて、変化のスピードが早かった東アジアではその噛み合わなさ、ちぐはぐさが露呈する。社会学では「圧縮近代(compressed modernity)」という概念を使う。

(圧縮近代については、下記の本に論文がある。)

そもそも人間の生活でも同じで、環境の変化が早すぎれば、どう対応していいかわからず、望ましくない結果が生まれてしまうことがあるだろう。

日本では、1980年代以降も「男性稼ぎ手」型をモデルとした政策(税・社会保障体制)、それに最適化された内部労働市場型の働き方(雇用構造)、そして中小企業保護政策があり、これが外枠における経済変化(雇用の不安定化)に追いつかず男性雇用の不安定化を招き、さらに女性の本格的職場進出を遅らせることになった。これにより結果的に共働き体制への移行が進まず、世帯形成の遅れ(未婚化)の歯止めがかからなかった。性別分業を支える価値観(特に政治指導部)における変化も遅く、政策対応の遅れに結びついた。

日本以外の東アジア社会では、相対的に高い経済成長を背景に競争的な経済・雇用環境が浸透し、そこに(高学歴化した)女性も巻き込まれ、極端な両立困難を生み出し、かつ競争の指標として教育達成が用いられ、高い教育コストを生み出した。これが非常に低い出生力に結びついた。

...とまあ(かなり大雑把な例だが)こういうふうに社会を記述していく際に、「構造・政策・価値観」という要素を織り交ぜていくのである。

最近の社会学や社会政策分野において、「社会の変化のスピード」に注目が集まるようになってきたのは、変化の速さが社会の部分間の関係のズレを生み出しやすくなり、そのことがさまざまな矛盾を生じさせるということが意識されるようになったからだろう。

出生率の低下に代表される「意図せざる結果」は必ず生じるものだが、社会変化がゆっくりであれば、それに余裕を持って対応することがある程度は可能である。しかし変化が早ければ、社会は様々な矛盾を抱え込みながら突き進むしかないので、(政策立案者の利害関係や価値観を含めて)内部がこんがらがってしまい、それをときほぐすことは容易ではない。社会は意図せざる結果にまみれている。政策対応とは基本的に意図せざる結果に対する対応であり、変化の速さは対応の難しさに直結する。

とりえあずここまで。

『社会を知るためには』補論:社会学と「制度的補完性」

9月に、下記の本を出版しました。

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

  • 作者:筒井淳也
  • 発売日: 2020/09/09
  • メディア: 新書

かわいいイラストも書いていただき、とても読みやすく仕上がっていると思います(当社比)。ただ、初学者向けとはいえ、いろんな読み方ができる本だと思っています。

本書のキーワードは、「緩さ」です。緩さとはこの場合、いろんな仕組み(制度)のあいだの関係、個人(意図)と社会(構造)の間の関係、そして概念と概念の間の関係が緩い、ということです。この関係の緩さから、社会の変化を説明できる、というのが一つの趣旨になっています。さらに、この緩さを表現できる社会学の社会理論の例として、アンソニー・ギデンズの構造化理論をとりあげています。

(以下、面倒なので「である調」で書きます。)

とはいえ、「緩さ」を社会の考察に含みこむことのメリットというのは、なかなか理解されないかもしれない。そこで、政治経済学における理論との対比で「緩い」社会理論のあり方について、本を補完する意味で説明しておこう。

政治や経済その他の制度を含めた「社会全体」を視野に入れる理論体系の例としては、社会学者が主導して議論してきた「社会理論(social theory)」のほか、政治学あるいは政治経済学の分野で議論が蓄積されてきた枠組みがある。政治経済学における「全体」は、「制度的補完性(institutional complementarity)」という概念が鍵となることが多い。

制度的補完性では、たとえば自由主義的経済体制は、比較的短い周期での技術革新が必要な業態、活発な外部労働市場とそれに合わせた一般資格重視の教育制度、連立型ではない単独政党による政治体制といった制度との相性が良い、といった議論がなされる。

これに対して、社会理論にもいくつかのものがあるが、相対的な特徴として、補完性ではなく「噛み合わなさ」を強調するものが目立つように思われる。とはいえ、かつては「補完性」を強調する議論が目立っていた。有名なのがタルコット・パーソンズの近代産業体制と核家族の組み合わせで、産業化は労働力の移動を要請し、またさまざまな機能を外部化する。それに最適化されたのが性別分業を含みこんだ核家族だ、という議論である。

これに対して、特に1980年台以降は、社会理論においても変化を視野に入れたものが増えてきたように思える。ギデンズの構造化理論はそのうちの一つだが、行為と構造(制度の絡み合い)とのつながりを「意図せざる結果」という概念を介してとらえていることに特徴がある。この場合、ある制度(たとえば政治体制)と別の制度(たとえば労働市場の体制)は、たしかに補完的な特性を示す圧力のもとにあり、結果的に相性が良いものになる可能性があるが、制度が意図せざる結果として維持されている以上、この補完性は徹頭徹尾意図的に維持されるようなものではない。むしろ、何らかの影響でガチャガチャと変化し、結果的に「噛み合わない」ものになることがある。

この「噛み合わなさ」は、しばしば同一社会の中の集団の対立で説明されることもある。補完的な制度が織りなすセット(社会体制)は、特定の社会集団(資本家、所得上位層、先進国国民、男性、等々)に有利になっていることがあり、対立する集団が提起し、一部実装されている制度と矛盾するのだ、というわけである。社会学では、こういった説明は「紛争理論(conflict theory)」と呼ぶ。

コンフリクトが社会変化をもたらすことはよくある(社会主義革命など)。しかしそれだけだとうまく説明できない社会変化のほうが多い。たとえば「移民の女性化」である。

※移民の女性化については、パレーニャス(社会学ジェンダー論)の本が有名。

Servants of Globalization: Women, Migration and Domestic Work

Servants of Globalization: Women, Migration and Domestic Work

  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: ペーパーバック

経済成長期においては不足する労働力需要を満たすために国外からの男性の移民が生じるというのが従来理論だとすれば、移民の女性化の背景には、経済先進国における共働き夫婦の増加に伴う家庭内でのケア・サービス労働の担い手不足がある。このとき、移民の女性化は女性の労働力参加や共働き夫婦の増加の意図せざる結果(あるいは副次的結果)としてもたらされている(移民の女性化を促すために共働きが進んだわけではない)。また、たしかに移民の女性化は先進国の共働き夫婦のメリットになっているが、とはいえ対立する集団とのコンフリクトの結果生じたものではない。

「緩い社会理論」の視点からすれば、コンフリクトは変化の中でもたらされるのであって、それはコンフリクトが変化をもたらすことよりも一般的な現象ではないかと思う。

とりあえずここまで。

急ぎ補足しておくと、政治経済学で変化が考慮されていないというわけではもちろんない。政治経済学分野における「変化」の説明については、下記の本の62頁に言及がある。この本は政治経済学の制度的補完性について厚めの紹介をしている。(近藤先生、献本していただき感謝です。)

中国で夏季集中講義

ひさびさの更新になります。7/8から7/15まで、中国の北京の大学で夏期集中講座を担当してきました。なかなかない経験だと思うので、備忘録代わりに記事を書いておきます。

講義を行ったのは大学は北京林業大学という大学で、北京の西北にある、たくさんの大学(北京大学清華大学など)が集中している地区にあります。林業大学という名称ですが、理系文系の学科を備える総合大学です(wikipediaの記事)。私が担当したのは、「外語学院」(「学院」は大雑把に言えば日本の学部みたいなもの)の授業。

キャンパスは北京大学やお隣の精華大学と違って「広大」というほどではないですが、建物の一部はかなり立派なものがあり、林業大学というだけあって緑豊かです。

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キャンパス

特に、教員研究室が入っているビルはすごかった。私の京都の研究室なんて、窓枠が錆びついてて開けるのに苦労するくらいなのに..。地下には居心地良いカフェがあって、コーヒー(こっちではレギュラーは「アメリカン」という)が美味しい。韓国資本の店みたい。

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研究棟
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研究棟のカフェ

夏期集中講座(サマーセッション)は、世界各国の研究者を招聘して一定期間で行われます。30人ほどいたはず。多くは理系の研究者でした。出身国はアメリカ、ドイツ、フランスが比較的多く、アジアからもちらほら。台湾、韓国、日本はそれぞれひとりずつ。日本出身は私だけ。

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サマーセッション始業式

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サマーセッション始業式集合写真

ちなみに報酬は高め。いろんな国から研究者を招聘するからでしょうか。詳しくは書きませんが、同じ時間担当しても、日本の集中講義とは比べ物になりません。できる人は、そら中国行くわ...とか思ってしまいました。しかし支払いは人民元なので、もらったあと多少面倒かも。源泉徴収後の金額が振り込まれます。

宿泊は、大学近くのホテル。そこから教室まで歩いて10分程度。途中から北京はかなり暑くなって(摂氏30〜35)、帽子必須です。日傘は、男性が使うとかなり目立ってしまうらしい。食事は、朝はホテルの朝食ビュッフェ。スープに入った水餃子が美味でございました。パクチーたくさん入れて毎日食べてました。中国人(らしき人たち)は油条食べてましたが...。

さて、授業は基本的に日本語。そういう趣旨の授業なのです。半分は日本語専攻の学生ですが、日本語を学ぶ他学科の学生(植物学や土壌学などの理系の学生や、心理学を専攻する学生)もたくさんいました。受講生は20名くらい。クラスサイズとしては、ちょうどよかったです。

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クラス

授業内容ですが、「日本社会の仕事と家族」というテーマで、近代家族論からはじめて、東アジアの圧縮近代論・半圧縮近代論、人口変動と家族経験の変化、福祉ミックス・福祉レジーム論、グローバルケアチェイン、日本的雇用、内部労働市場、最近の働き方改革...というふうに進みました。学部にしてはそこそこアドバンストな内容でしたが、なんとかついてきてたかな、という手応えはありました。

授業の最初に、「日本の家族のイメージといえば?」という質問を無茶振りしてみたのですが、学生の答えはこんなかんじ。「個人化している」「そもそも結婚しない(したくない)」「主婦が多い」「最近は老親扶養はあまりしない」「二世代家族が多い」。わりと当たってるな、という印象を持ちました。

ところで、中国の大学の授業は1コマ45分です。たいていは一回で2コマ使うらしいのですが。ですので、ひとつのコースで32コマ。これを6日に分けてやりました。大学の規則で、1日に6コマまでしかできないので、月〜金で30コマ。残り2コマは、次週の月曜日。

かなり長丁場なので、あいだあいだに学生の自主発表をいれました。最初は、5つのグループに分けて、テーマは何でも良いので日本のことについて発表してもらいました。そこで学生が持ってきたのは、「ドラマ」「Jポップ」「茶道」「アニメ」、そして「宝塚」。やっぱり学生の日本に対する関心は、圧倒的に文化ですね。発表の後、いちおうコメントというか補足の解説を私がするのですが、宝塚については(たぶん発表してくれた中国人より)知識がない。なので、日本の都市部(特に東京と関西の)「私鉄文化」について話をしました。住むところを「路線」と「駅」で表すことが多いとか、なんとなしに「序列」みたいのがあるんだよ、とか、沿線開発の話とか。

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学生のプレゼン

話は変わりますが、同じ漢字文化なので、話が通じやすい反面、すれ違いもあります。たとえば「無償労働」。「無償労働にはどういったものが含まれるか?」という問題を学生に出したとき、答えのほとんどが「刑務所での使役」のような回答で、家事や育児と回答したのは1グループだけ。あとから学生が言うには、中国語で「無償労働」というと、どうしてもそういったニュアンスを持ってしまうらしい。なので、いちおう英語(unpaid work)をそえて改めて説明。

授業の終わりの方で、なんでも良いから日本について質問をしてみて、という時間を設けました。学生からの質問は、「日本のキャッシュレス決済の現状」「日本の大学の外国人留学生の様子」「日本社会でのLGBTの権利」「バブル経済のときのアート・音楽」「日本女性の礼儀作法」「和室と洋室の違い」「祝祭日(みんなでなにか祝うの?)」「神社・神道」「文化財の保護(古い建物など、どういやって保護している?)」「ゴミの分別(かなり面倒だと聞いたがほんとか)」「関東と関西の文化の違い」「不登校問題」「いじめ問題(樹海?に入って自殺するケースがあるらしいが、ほんとか)」「皇室の意味・運営の財源」などなど。

いったん授業の話から離れますが、中国でのキャッシュレス化について。これについてはいろんな人が現地レポートしてくれていますが、私も現地の人が現金を使っているところは、滞在中一度も見ませんでした。実は10年前に学会で北京に来たときに使い切れなかった現金を、今回持っていったのですが、現地の人に見せたら「なつかしい」的な反応をされました。古いお札が混じっていたからかもしれませんが。もちろん使おうと思えば使えます。が、現地の人はたいてい、どんなに少額な決済でもWeChat Payですね。最近は日本でもいろんなところで使えます(日本の口座やクレジットカードとの紐付けは難しいようですが)。

WeChatは、LINEとFacebookをあわせて、さらにその他のいろんな機能を含みこみつつ、中国人の生活インフラになってます。授業でも、お世話してくれた中国の先生や大学院生がさっそくWeChatのグループを作ってくれて、連絡や質問をそこでできるようにしていました。まあこれは、日本でもLINEでやってる人は多いでしょう。

そして道路交通事情。10年前と比べるとだいぶマイルドになっているような。ただ、やはり歩行者に対して自動車やバイクの「優先度」が高いので、歩くときは十分気をつけないといけない。法律的には歩行者優先らしいのですが、全く守られていません。横断歩道を渡っていても、ふつうに車やバイクが突っ込んでくる。さらにバイクはほとんどが電動なので、音もせずに後ろから接近するので、歩くときは常に後ろを意識しないとダメ。中国の人によれば、歩行者も運転者もお互い「ウザい」と思っているらしい。

自動車のメーカーを観察してたのですが、北京の都市部だからか、ドイツ車が半分程度。BMWメルセデス、そしてVW。残り半分については、韓国車、日本車、アメリカ車が同じくらいの割合でしょうか。日本車の中では、日産が多かったかな? プリウスは一台も発見できず。いずれにしろ、日本の都市部と違って小型車はほぼ皆無。ほとんどセダンかRVタイプ。

次にネット環境。あらかじめ聞いてましたが、やはり制限がきつい。ふつうにやっても、Google関連のサービスは利用できません。Facebookもダメ。Hatenaは、アクセスできる時もありましたが、不調。たぶん、GoogleがNGなせいで、他の多くのサイトも共倒れしてしまう。YahooJapanは、トップページはなんとか表示されますが、検索はできない。検索が封じられると、いろいろ不便です。授業で、日本のいろんなことの紹介をしようと思っても、その場で検索や閲覧ができない...。ただ、迂回する手段はあります。みんなこっそり?やってる。ネットに限らず、中国社会の自由さと不自由さは、ひとことで言い表すことは難しい。

下の写真は、学生寮の下の歩道。テーブルに、学生たちがスマホで注文したランチが置いてあります。決済はスマホで済んでいるので、あとは受け取るだけなのですが、宅配業者がテーブルに放置して、注文した学生が好きなときに回収する。なんとも自由な発想。

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デリバリー

授業の最後に、学生たちからお花をもらいました。みなさんのおかげで、最初から最後まで気持ちよく授業できました。感謝!

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学生からお花
授業の様子は、現地で記事にしてもらいました。

帰途は、一週間以上の海外滞在でだいぶ疲れたのと、帰国の翌日に東京出張ということで、無理せずにビジネスに。エア・チャイナのビジネスはかなり安いのですが、サービスはよいです。

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旅の最後にお酒

日本酒は獺祭。また来よう!

NHK出演の(裏)話

某高級ブランドのプレス(広報)として出演してまいりました。

www.nhk.or.jp


で、やっぱりいろいろカットされていたので(仕方ないけど)、ここに書いておきます。(ひさびさの更新がこんなんですみません。)

「家電量販店と恋愛の関係」のくだりについては、カットされましたが、「このグラフで関係があるというは難しい」ということと、「都市部で家電量販店が多くて、若年女性が多いから出会い確率も高いといった可能性は排除できない」のような発言をしました。

マッチングのパーティのところでは、VTRのあと「NHKのカメラが入ったから、同じ条件じゃないでしょう」みたいに突っ込んでたら、マツコさんに「あなた全部否定するわね〜」といじられて笑い?が起きたのですが、ここもカットでした。

あとは、わりと最初の方で「官製婚活については賛否両論ですよ〜」みたいなことも話をしましたが、これも(私の発言としては)放送はされなかったかな? まあ、2時間近く収録して、50分くらいに短縮されているので、仕方ないか。

総じて、大事な発言もいろいろ残してくださったので、特に大きな不満はございません。ただ、ノーカット版だとマツコさんのすごさがもっと伝わるのにな〜。2時間の収録、楽しめました。

『社会学はどこから来てどこへ行くのか』出版によせて

今月(2018年11月)、四人の社会学者の対談集、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』が出版された。私以外の三人は、社会学の世界に限らず高い認知度があって、どういったいきさつからか、そこに私も混ざっているのだが、いくばくか場違い感があるのは否めない。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

私はどちからといえば、他の三人と比べて制度としての社会学の世界に浸かっている度合いが強い。社会学会、家族社会学会、数理社会学会では面倒な≒重要な役を仰せつかっているし、大規模な調査プロジェクト(SSMやNFRJ)に参加しているし、そういったしがらみのなかで雑務に追われるのが日常だ。一日の仕事時間の1/4くらいは、広い意味では学会関係の仕事をしていると思う。twitterをみる時間もあまりない。といっても、ネットの世界は最近は社会学への悪口ばかりなので、いっそのことみなくてよいのかもしれない。

さて、対談に寄せた他の三人の思惑は必ずしも同じではないだろうが、なんとなしに、同じ方向に視線を向けているようにも思う。岸先生が「はじめに」のなかで書いている。

社会学は変わりつつある。それは、職人たちが特定のテーマと特定の方法で、広い意味での社会の問題に取り組んでデータと知見を蓄積する、「普通の学問」である。私たちは、理論であれ量的であれ質的であれ、社会のなかで、人々とともにある。それがどこから来て、どこへ行くにしろ、このことは変わらない。(本書5頁)

もっと言えば、「普通の学問」としての社会学は、メディアや一般受けする言説の世界とは少し離れて、常に存続してきたのだ。私の言葉で言い換えると、社会学は「しょせんそういうものだ」という自己認識を再確認しつつある。そういう意味で、かつての綺羅びやかなイメージから、本来の地味な存在に「変わりつつある」ということになるだろうか。

80年代から90年代にかけての、社会学の派手なイメージの背景には、社会の包括的な理解としての「社会理論」研究があったことは確かだろう。フランス現代思想を取り込んだ(あるいは「乗り越えた」)抽象的な理論言説は、それこそ社会の総体のみならず、女子高生からオウムに至るまで、直近の社会現象をも首尾よく説明しているかのような雰囲気を醸し出した。

稲葉先生が、本書の出版にあたって関連した記事で書いてくれている。

この時代における日本の社会学は、いわゆる「現代思想」、ポストモダン哲学、フレンチ・セオリー(もちろんフーコーもその中に数え入れられる)の強い影響を受けた、理論的百花斉放の時代であった。筒井はどうか知らないが、稲葉も岸も北田も、まさにその時代の空気をいっぱいに吸い込み、その時代ならではの「黒歴史」を抱え込んでいる。

せっかく触れてもらっているので、少し当時の私についても書いておこうと思う。

私も「その時代の空気」を吸っていた一人だ。フランス現代思想の著作は、一人の思想家につき1〜2冊程度だが、読んでいた。浅田彰も読んだし、橋爪の「はじめての構造主義」も読んだ。ついでに、なぜかフロイトユングが好きだったから、全集を買って読んだ。ゼミの方針が原典主義だったので、つらい思いをしながらフーコーをフランス語で読んでいた(といっても、原語で読んだのは「性の歴史」の一部だけだったが)。そもそも学部の頃は哲学志望だったので、ドイツ語で主にハイデガーを読んでいた。

結局哲学を辞めて、大学院時代は社会理論研究をしていたのだが、それもしばらくしてやめてしまった。ひとつのきっかけはウィトゲンシュタインだったと思う。ウィトゲンシュタインに触れたのは、当時同僚だった前田泰樹君(現在は立教大学社会学部教授)の影響だった。どういう心の変化があったのかはうまく説明できないのだが、自分の中で「理論」というものの位置づけが、本(古典)の中から、研究対象としての人々のなかに移行しつつあった。

そのあとはひたすら実証研究である。ほとんどは、量的データ(調査観察データ)を使った研究だ。その世界にどっぷりと入り込んだ。そこで、二つの経験をした。

最初に生じた変化は、社会学ではない他の分野と研究とのつながりを実感したことだ。量的研究の言葉は、統計学をはじめとして、分野を横断して共有されている。当時はそうした「標準科学」の世界の住人になったのだと思いこんでいて、「理論研究」と称してなぜか学説研究をしている社会学の世界が、ひどく遅れているようにも感じていた。(ただ、理論研究が学説研究と混ざりやすいという社会学の特徴も、いまでは理解できる。)

次に生じた変化は、社会学の計量研究が、あまり他分野のそれと混ざり合わないことへの疑問を感じ始めたことだ。

ある学問を別の学問と意図的に差異化したり、分断したりする必要はまったくない。しかしそれでも、実態としての差異は残る。それをちゃんと理解すれば、余計な悩みも減るのではないか。計量研究についてのこの問いへの答えは、『現代思想』に寄せた「数字を使って何をするのか:計量社会学の行方」という論考で展開した。

現代思想 2017年3月号 特集=社会学の未来

現代思想 2017年3月号 特集=社会学の未来

この時期、有斐閣から企画をいただいた。『社会学入門』である。

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

社会学入門』は、「社会学の問いや方法は、普通の人々の問いや方法の延長線上にある」ということを、(稲葉先生の言葉を借りれば「臆面もなく」)前面に出した教科書だ。もう少し言えばこうなる。学問では、理論や方法が、人々のそれとかなり隔絶した独自の体系となっている。経済学がそうだろうが、その「距離」が社会変動や人々の行動の理解の武器になることはよくある。他方で、個々の社会問題の理解について、その距離化が裏目に出ることもある。

社会問題は、それ自体多様で、異質な人々が交錯するところにあり、また時代と社会に応じて移ろいやすい。こういった社会問題にアプローチするには、もう少し人々の問い/方法/理論(概念)の方に近づいていく必要がある。この方向を突き詰めるのがエスノメソドロジーだが、それ以外の社会学も、問い、方法、理論を人々のそれから受け取っている度合いが(他の学問に比べて)格段に強い。

だから、経験社会学における理論の多くは「緩い」ものになりがちだ。というのも、人々の概念が緩いからだ。同じ前提から複数の(しばしば矛盾した)結論が出てくるような、あまり演繹的ではない「理論」が展開されることもしばしばである。

なぜ、こういった理論の「緩さ」が生じるのでしょうか。それは、社会学の理論の多くが日常生活における概念連関を参照しながら行われるからです。(『社会学入門』205頁)

こんなふうに書いてしまうと誤解を生じやすいかもしれない。というのも、人々の概念連関への参照、つまり距離が近いことは、社会学のある種の素人くささ、いい加減さにも結びついているからだ。

しかし、「素人くさく」あることは、それはそれでけっこう大変なのだ。知的に誠実であろうとする限り、緩さと距離化の違いがもたらす帰結に、向き合わないといけないからだ。

実際に「距離を縮める」ことは、「距離をとる」ことと同じくらい、大変な作業である。なぜなら、人々の概念に近い場所で思索し、かつ知識の妥当性をある程度確保しなければならないからだ。計量調査でも、概念理解が前提になる。なので、社会学の調査では、量の決定が質的に(人々の概念を参照して)なされることが多い。質的調査では、人々の「語り」の真実性という問題に直面する。知識の妥当性を確保する方法は、いずれも単純ではない。

いったい、「ふつうの社会学者」はどうやって知識の妥当性を確保しているのだろうか。この話題は、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』でも少し触れられている。ぜひ読んでいただければと思う。

近況報告

ずいぶん更新しておりませんでしたが、いくつかお知らせです。

社会学入門』(前田泰樹先生との共著)

各章について、量的研究を専門とする筒井と、質的研究を専門とする前田泰樹先生が異なった視点から執筆するという新しいスタイルの社会学入門です。量的研究と質的研究の視点の違いを感じながら、平易に読み進められると思います。

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

稲葉振一郎先生が執筆してくださった書評も、ぜひご覧ください。

書斎の窓 2018年5月号 『社会学入門――社会とのかかわり方』 稲葉振一郎

社会学入門』(分担執筆)

市民社会と公共性」という章を担当しました。市民社会、公共性、ソーシャル・キャピタル、サード・セクター、中間集団といった概念について、社会学的な視点に位置づけて解説しています。

社会学入門

社会学入門

Contemporary Japanese Sociology (共編著)

日本の計量社会学、数理社会学の査読論文を集めた3巻の論文集です。筒井についてはVolume 1のIntroductionを執筆し、さらに同じ巻に論文(単著)が一つ掲載されています。

Contemporary Japanese Sociology (SAGE Benchmarks in Sociology)

Contemporary Japanese Sociology (SAGE Benchmarks in Sociology)

インスタグラムと現代視覚文化論(分担)

メディア文化ジャンルの本です。筒井は「写真の理解可能性:計量社会学とインスタグラム」という章を執筆しました。

インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって

インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって

メディア出演・掲載

2017年度以降、いくつか新聞・雑誌等に寄稿あるいはコメント寄せをしています。詳しくは下記をご覧ください。

http://research-db.ritsumei.ac.jp/Profiles/30/0002979/other1.html

もろもろお知らせ

年末も近づいてきましたが、いくつかお知らせです。

『パネルデータの調査と分析・入門』出版

パネルデータの調査と分析・入門

パネルデータの調査と分析・入門

パネル調査法と分析法、いくつかの分析例を収録した画期的な入門書です。ぜひご覧になってください。

社会調査協会賞(優秀研究活動賞)受賞

平成28年度(第6回)の社会調査協会賞(優秀研究活動賞)を受賞しました。お世話になった方々に深く感謝申し上げます。

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メディア出演・掲載

今年度に入って、いくつか新聞掲載等がありました。まとめておきます。