社会学者の研究メモ

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アンペイドワークについて

(2012.10.8追記:お勧め文献を追加しました。)

概念整理

社会学分野でも、ケア労働やアンペイドワークについて多くの理論的・概念的考察がなされてきた。しかし文献のなかには、概念的な混乱のために無駄な議論をしているものも多い。この記事では、アンペイドワークをめぐる概念整理をして、それを踏まえてアンペイドワークについてどのような研究プログラムがありうるのかを検討する。

最大の混乱は、unpaidを「対価(見返り)として貨幣が得られない」という状態を指すのか、あるいはそもそも「(いかなるかたちでも)対価がない」状態を指すのかが、しばしば区別されていないことにある。「無償労働としての家事」と言うときは、それが賃労働ではないということが強調さているはずだ。他方でunpaid workを「不払い労働」という意味で使う場合、対価がない無償の奉仕という意味で言葉を用いているのだと思われる。

「対価として貨幣が得られない」ことと「対価がない」状態が概念的にさほど無理なく区別できるということについては異論がないだろう。「落し物を届ける」という行動に対して高額な(品物の)お礼をもらったという場合、その行動によって貨幣を得ているわけではないが、対価は得ている。

読んでいて違和感があるのは、あまり明確な意図もなく、「アンペイドワーク=非賃金労働=無償労働=(不当な)不払い労働=対価のない労働」という連想が働いているような文章である。

このような無思慮な連想をすることで、次のような本来問われるべき問いが見えにくくなってしまう。(面倒なので、不正確だが貨幣を対価として得る労働を以降「賃金労働」といっておく。)

  • A:賃金労働と非賃金労働の区別はいかにして理解され、また配分されているのか。
  • B:賃金労働だろうが非賃金労働だろうが、その価値はいかにして争われ、また決まっているのか。

おそらくこの2つだと、Aの方が検討が難しい問いである。最もシンプルな答えは、なんらかの雇用契約に基づいた賃金を得ているかどうかである。そうすると、たとえば夫が家計を握っている家庭で、妻の家事の働きがよいので夫が妻に預けるお金を増やしたというケースは、賃金労働には入らない。自営業主のケースを組み入れるのなら、より一般的な意味での商取引がフォーマルに遂行されたかどうか、になる。ひとまず、フォーマルな手続きを含むかどうか、となるだろう。

次にBである。貨幣を介した取引が公平なものになりうる条件は、経済学的に論じることができるかもしれない(たとえば完全情報など)。それでも基本的には、価値付けは多分に「政治」、すなわち不確定性の中の争い・決定の問題でもある。たとえばEUであれば有期雇用は有期であるがゆえに長期雇用よりも賃金率が高いという理屈が通用しやすいが、日本ではそうではない。非賃金労働にもいろいろあるが、家事労働の場合、その不公平性の感覚は多分に周囲で受容されている規範・基準に左右される。性別分業が強い国ではそうではない国に比べて妻が家事負担に不公平感を持ちにくい(参照)。

要するに「ある情報を隠して取引を優位に進める」といった駆け引きは、賃金労働だろうが非賃金労働だろうが行われているということだが、おそらくその方法は賃金労働と非賃金労働で異なってくるだろう。そこで、次の問いが成立する。

  • C:「ある労働の対価が妥当かどうか」という判断は、それが「賃金労働かそうでないか」という区別とどのように結びついているか

ここで「労働の対価が不当なものかどうか」という判断と「それが有償か無償か」という区別はうまく結びつきにくい。というのは、後者の区別がすでに対価についての区別になってしまっているからである。「不払い労働の対価は妥当か?」と問うことは基本的にナンセンスだろう。

研究プログラム

賃金労働と非賃金労働の区別と配分は、もしそれぞれの対価を一義的に測定できるのであれば、社会全体の富にとって無差別である。とはいえ現実はそのようはなっていない。ここで「非賃金労働の方が不当な搾取が生じやすいのだ」と単純に結論してしまうのでは、なぜそうなるのかについての説明を放棄していることになる。

その上で、どのような研究プログラム(問い)が考えられるだろうか。

経済学的には、賃金労働と非賃金労働の配分について「どのような配分が最適か(全体の富を最大化させるか)」といった問いがありうる。労働の対価を貨幣とすることは、価格メカニズムを介した需給調整をやりやすくし、同時に政府を介した供給をしやすくするという特性がある(政府を介した労働の配分では、税や社会保険料を支払う代わりに労働サービスを得ている)。

さらに問われるべきは、このようなメリットにもかかわらず一部の労働についてはそれが市場化/政府サービス化されていないのはなぜか、ということだ。「家事労働を市場や政府による配分から排除する力が働いたからだ」というのはひとつの仮説であり、そのような結論に飛びつく前に、効率性の観点から解明すべきことはあるだろう。もし特定のタイプの労働が、非賃金労働であるときに効率的に配分されるという場合、それを制度的に家族や関係性の外に「外部化」することは大きな副作用をもたらす可能性がある。規範的に望ましいことが効率的であることはむしろ稀だが、かといって効率性を無視すると社会的な損失が大きくなりすぎることがある。

社会学的/政治学的には、賃金労働と非賃金労働について、どちらのほうがどのような条件で不当な取引を生じさせやすいかといった問いが成立するだろう。以前、「収入を伴わない家事労働は法的な保護も得られない不当な状態に置かれている」と断言している文章(地位のある研究者が書いたものだが..)を読んだことがあるが、それこそ問われるべき問いであり、経験的な実証研究抜きでアンペイドワークと不当な処遇とを結びつけるのは「説明の放棄」であり、問題の解決を遠ざけるものだ。繰り返しになるが、「アンペイドワークが不当な処遇を受けやすいかどうか」を規範論的に決定するのはもはや研究ではない。いかなる条件においてアンペイドワーク(非賃金労働)が不当なものになり、いかなる条件においてそうはならないのかが経験的に問われるべきなのである。

このような問いと並行して、非賃金労働であった労働(たとえば家事サービスや教育サービス)が賃金労働に組みれられるようになるプロセスを記述する、という研究も考えられる。別の言い方だと、特定の職業の分化・成立過程の社会学的研究、ということになるだろう。ここで難しいのは、「同じ」タイプの再生産労働が、以前は非賃金だったが、現在は賃金労働として市場が成立している、という言い方がどこまで許容できるのか、だろう。「かつては家庭で提供されていた教育サービスが、現在は政府や市場を介して供給されるようになった」という言い方をすることで、得られるものと失われるものがある。それをできるだけ意識すべきだろう。

何が足りないのか

総じて、ケア労働やアンペイドワークに関する様々な論考のなかには、規範論に偏りすぎているものが多い。「本来ケアの配分やケア労働に関する支援はこうあるべきだ」といった主張が先にあり、現状がそこからの距離として記述されるために、現実の適切な記述や分析ができていないのである。人びとの生活は、そういった規範論者が思い描くよりも、もっと複雑で精妙なのだから、その様子を観察しないことのデメリットは大きい。

まだある。政治学の田村哲樹先生によれば、政治学とは「結果の不確実性を多元主義的に見よう」とするところに特徴がある。とすれば、規範論から現実を論じようとする論者に足りないのは、政治学的なものの見方である。すでに述べたことだが、賃金労働にせよ非賃金労働にせよ労働の価値は一義的に決定できないことがほとんどであるので、必然的にひとびとは労働の対価を「別様でもありうる」なかで決定し、引き受けている。別様でもありうるがゆえに、「同じ内容」の賃金労働やアンペイドワークは、別の社会では別の対価をもたらしている。同一労働同一賃金制度が「政治的」に導入された社会では、正規・非正規や男女の賃金格差が圧縮されるため、賃金は全体的により均等である。さまざまな条件をそろえた上でも家事の夫婦間分担が各国でかなり異なってくるのは、さきほども触れたように家事労働の価値の「相場観」が何らかの理由で異なっているからである。

「ケア労働を引き受けている者が不当に搾取されている」ということは、研究者が上に立って主張することである以前に、そうした偶有的な状態の中で日々主張されたり反駁されたりするものである。このプロセスを経験的につぶさにみていくことの方が、よほど実りのある研究プログラムであるといえる。

というわけで、最後におすすめ図書を一つあげておく。

労働再審〈5〉ケア・協働・アンペイドワーク―揺らぐ労働の輪郭

労働再審〈5〉ケア・協働・アンペイドワーク―揺らぐ労働の輪郭

(追加)

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

家族性分業論前哨

家族性分業論前哨