社会学者の研究メモ

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公共圏と親密圏(その2)

前回の著作で私が出した仮説は、こうだった。

親密な関係(ランダムではなく特定の人物との関係を積み重ねていくタイプの関係)には、メンタルな満足を効率的に産出するという合理性がある。だから市場や政府による配分原理が適用される公的世界とは別に親密な関係の領域は残っているし、これからも政府や市場に回収されずに残るだろう。

たとえば悩みを共有したりすることから得られるメンタルサポートは、人の幸福度に強く影響することがわかっている。そして、こういったサポート関係は市場や政府から供給される匿名的(交換可能)なサービスから効率的に提供されない。一般に匿名的関係からは効率的に提供されないサービスのことを親密財と呼ぶとすると、公的配分原理は親密財の供給に失敗する。(市場が供給に失敗するのが公共財で、これは政府が供給する。市場も政府も供給できないものが親密財。)

...ただまあ、仮説なんですけどね。しかしゼリザーの「how」の問いが素通りした「why」の問いに答えようとはしている。

このようなフレイムで考えていくと、社会関係資本ソーシャル・キャピタル)や社会的ネットワークの理論にとってもいろんな含意が出てくるかと思う。たとえば私は同じ本の中で、グラノベッターの「弱い紐帯」、バートの「構造的空隙」の理論をとりあげて、こういった社会的ネットワークを駆使して個人が優位に立つような戦略はレントシーキングのようなもので、必ずしも全体の効率性の面からはプラスにならないはずだ、と指摘した。これはゼリザーが「親密性が経済的世界では非効率をもたらすものとされる」と述べていることと同じ事態を指している。コネつくりに精力を傾けていると、生産性は下がるし(インフルエンス・コスト)、公平性の価値からも容認できない。

「じゃあ社会関係資本が持つ全体社会にとってのメリットは何か」というと、やっぱりパットナムや山岸俊男先生らが強調する「信頼」にあるんじゃないか、という話になる。市場は不完全なので、信頼が十分に発達していないと取引コストが莫大になって本来は可能なはずの量の取引が達成されない。取引しても大丈夫な相手かどうかを的確に見分けるスキルがあれば、高信頼社会を築くことができる。これは個人にとっても、おそらく社会全体にとっても利益になるはずだ。

ところが、パットナムは立場的にあやふやで、自分のことを共同体主義だと自認しているので、話がヘンになってくる。(これについては次のエントリに書こう。)

親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)

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ソーシャル・キャピタル―社会構造と行為の理論

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