読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

昔の講義録:そもそも自由って?〜哲学的思考の練習〜

社会学

ウィトゲンシュタイン流にいえば,言葉の意味は言葉の使用である.だから自由の意味は,私たちが自由という言葉のもとで行うコミュニケーションにおいて了解されているものである.

しかしこれだと話が終わってしまうので,少し話を展開させてみよう.例えばここにY先生という架空の人物を考えてみよう.Y先生は,大学を卒業してふつうのサラリーマンになることもできたのだが,大学院に進学して研究の道を選んだ.

Y先生のこの決定は「自由」な意志か?

確かにこの選択は「自由」である.親が決めたわけではなく,ほかならぬY先生という「本人」が決めたのだから.しかしいい方によっては,Y先生が研究者になったのは「サラリーマンなんて俗なこと,やってらんないぜ」というY先生の性格が決めたことかもしれない.それでも,「性格っても,Yさんの性格なんだから,それはやっぱりYさんの自由な意志決定だよ」といいたくなるだろう.しかしその性格を決めたのはYさんだろうか?

今度は「違う」と言う人が多いだろう.Y先生の少しひねくれた性格は,育ち方や周りの人,遺伝的要素など,一般的に言えばYさんの環境が作り上げたものだ.

わけが分からなくなってきた? 実際に,宗教(神学)や哲学にはこのように論じる立場がある.神学上の概念である予定説は,すべての出来事は神の意志によって決定されている(だから基本的に人間が何をしてもその人間の行く末は変えられない)と論じるし,哲学上の決定論も同じように主張する.よく知られていように,哲学者カントはこの問題を認識可能な現象界(における因果性)と認識不可能な可想界(における自由意志)を分けることで解決を試みた,とされている.ここでは難しいことは触れないが,こういう難しい問題が一見簡単な言葉にもつきまとっていることくらいは知っておいた方がよい.

私は社会学者だから,この問題を社会学的に解決(=回避)してみよう.社会学的には,行動の選択の自由は社会的な状況(必要性)に応じてその都度決定されてくるものである.例えば,Y先生が仕事のストレスのあまり,犯罪を犯してしまったとしよう.裁判所に出頭したY先生は,「仕事のストレスという私の環境が悪いのであって私は悪くありません」と言う.しかし裁判長は,「それくらいの程度のストレスは免責の理由にはならない」と,Y被告の訴えを退けるだろう.

そう,ここで問題にされているのは「意志の自由は存在するか」ということではなく,「どの程度の状況で人は選択の責任を帰属できるか」ということなのだ.裁判で問題にされるのはまず意図の有無(故意か過失か)であり,過失である場合には「環境に対する個人の責任」(工事現場で過失事故が起きたなら,現場という環境の管理をきちんと行っていたか)を問うことになる.もちろん,精神鑑定の結果,Y被告が正常な判断を行える状況になかった,と判断される場合,意図も過失も問われない.ホッブズが経験論的な立場から自由意志の観念を哲学者として退けようとも,ホッブズが万引きをしたら,いいわけのいかんにかかわらず罪を帰属されてしまう.そしてこういった基準はすべて,哲学的にではなく,はたまた心理的にでもなく,社会的に決定されてくるものだ.

社会的な帰属の様式と,個人的な帰属の様式はほぼ一致する傾向にある.そうしないと個人は大きなストレスを感じてしまうからだ.

基本的に人の自由意志の有無は選択肢の多様性に左右される.ある個人にとって頭のなかに選択肢がなければ(つまり選択肢を思い付いてなければ),自由意志を語ることも意味をなさない.そして「あ,こういう選択肢もあったのか」と人が気付く範囲は,基本的に情報の交流と多様化によって広げられてきた.人々が決まりきったルーティン(反復作業)に従って行動しているような社会的状況では,人々はそもそもあまり自由意志を持っていないと言わなければならない.身分制社会では,農民の子が「農民になろうかな,それとも商人か武士になろうかな」という選択をそもそも思い付かないのであるから,そういう意味では職業選択に関して自由意志など存在しようがない.人は自由意志をもって人を殺すこともできる…ように思える.しかし,人を殺すということがまったく行われていない社会があるのなら,そこでは人は殺人の自由意志を持っていない.思い付かないからである.今のこの社会において,人は人を殺す自由意志をもつことはできても,空を飛ぶ自由意志を持つことはできない.思い付かないからである.

この意味で,自由意志に関して,カント流の解を採用する必要はない.自由意志を規定するのは社会であり,その社会に埋め込まれた言語形式なのであるから.

断っておくが,選択肢をたくさん思い付くということと,実際にその選択を享受できるということとは別問題である.「職業選択の自由」は,決して「自由意志さえあれば(=思い付く範囲で)どんな職業にもなることができる」ということを意味しない.