社会学者の研究メモ

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日本的働き方における「フレキシビリティ」の矛盾

シノドスに「男女雇用機会均等法では「共働き」を実現できない」という記事を掲載させていただいた。そこでは、育児期の制度的手当をし、採用・昇進(昇格)に際しての男女差別を排することで(従来の)男性的働き方に女性を引き入れようとしても、結果的には女性の「活躍」は実現されず、性別分業は維持されるだろうと書いた。

その背景にある働き方の特徴についてはそれほど詳しく書いていなかったので、ここで補足しておく。

日本的な働き方の特徴の一つに、社内で人員をフレキシブルに配置できる、というものがある。職務内容や勤務地がはっきりと決められていないため、内部労働市場が活発になり、経営者は事業の縮小や新規展開にあわせて人員を柔軟に配置換えすることができる、ということである。1970年代以降の経済成長率の低下に際して欧米諸国では大量失業が生じたのに日本では失業率(特に若年者失業率)がそれほど高まらなかったのは、余剰労働力を吸収する旧セクター(自営)の厚みや女性を非労働力化する家庭の影響があったという事情もあるが、内部労働市場の活用も無視できない。

しかしそれと引き換えに、企業の内部では能力主義(職能資格制度に基づく個別的評価)が浸透し、働く人々にいっそうの「柔軟性」が求められるようになった。つまり、複雑な複数の職務を把握し、周囲と協調して働くことがますます求められるようになった。そこでは具体的職務内容の遂行ではなく「潜在能力」が職務能力評価の対象になるため、「適性」「能力」「意欲」といった抽象的な基準で個人主義的な評定がなされるようになった。一見能力主義と対立するようにみえる「情意考課」も、もとはといえばこういった能力主義化のもとでの柔軟性の要求の延長線上にある評価の仕方である。

いってみれば、社員全体が「経営者的意識」を持つことを要請されてきたのである。このような働く環境において、女性は排除される傾向が強くなる。

能力主義と企業社会 (岩波新書)

能力主義と企業社会 (岩波新書)

性労働者はふつう、はじめの[職能資格の]二段階くらいで上に進む挑戦を放棄して、いまなお大勢としては<単純労働−短勤続−低賃金>という伝統的な「三位一体」のなかにとどまっている。高度化したフレキシビリティ(特に仕事量、労働時間、働く場所に関するそれ)と「仕事第一」の生活態度への要請に答えることが、女性としての慣行的な存在を脅かすからであろう。(熊沢上掲53頁)

上記のシノドスの記事でも参照したが、厚労省が企業向けに配信している「コース別管理制度の留意点」においては「労働者の意欲、能力、適性等に応じ、総合職への転換を積極的に進め、経験、能力を十分に評価した処遇が行われるように配慮しましょう」という文言がある。まさに女性を基幹労働力から排除する論理であった「意欲、能力、適性」というあいまいで無限定なエフォートを要求される基準で女性を登用せよ、と書かれているのである。ここに根本的な方向性の誤りがある。

さて、ここでよりいっそう奇妙なのは、他方で日本的な働き方の特徴には「自律性」が極端に欠如している、という事実である。このことが、日本的職場におけるワークライフバランスの実現をいっそう難しくしている。

シノドスの別の記事(「日本の職場の「窮屈さ」について」)や拙論文にも書いたが、日本の労働者の働き方はきわめて「硬直的」である。具体的には、「仕事の開始と終了の時間をどれくらい自分で調整できるか」「自分の普段の仕事の段取りをどの程度自分で決められるか」「個人や家族に関する理由で一〜二時間程度仕事を休むことができるか」という点について、日本の雇用者の自律性のなさは際立っている。(JIL論文では、比較条件を民間フルタイム雇用のオフィスワーカーに絞って分析しているが、それでも結果はほぼ同じであった。)


(上記記事より再掲)

能力主義的管理のもとで柔軟な働き方が要請される一方で、働き方の自律性はない」というこの矛盾は、いかにして説明できるのだろうか。というより、そもそも「柔軟な働き方が求められるがゆえに、働き方が硬直的になっている」といった方がよいかもしれない。これには、1970年代以降の職能資格制度の広がりと能力主義の強化、ならびにその後の成果主義の部分的導入が、人件費削減圧力のなかで実施されてきたことが背景にある。

第一のポイントは、作業の効率化に関わる。生産性の向上がオフィスワークにも求められるようになり、さらにその効率化(本来は経営者や管理職が担うべき作業)の意識を労働者一人ひとりが内面化し、職務が多面化し、労働密度が上昇していく。こうなると、職務を「人と時間で切り分け」することが難しくなる。精密機械の部品をひとつ抜いたら、その機械の生産性は著しく低下するかもしれない。「仕事の段取り」を各自で決める余地も当然小さくなる。

もうひとつが評価基準が抽象的であることに起因する硬直性である。柔軟にいろんな仕事内容・仕事場所に適応するためには、潜在的な能力、人格的能力(やる気があること、コミュニケーション力があること、協調的な性格であること、などなど)が必要になる。意欲を測ることは難しいために、評価に差を付けることを上から命じられた上司が、困った挙句に残業をわかりやすい意欲のしるしとして判断してしまう可能性がある以上、なかなか仕事時間を自分で管理することは難しい。

つまるところ、職務配置の柔軟性とは、労働者の働き方の自律性の縮小と引き換えで可能になるものなのである。欧米的・職務給的な働き方は、職務内容が限定されているがゆえに、労働者はそれ以外の点で自律的な働き方をする余地が残されているし、また自分たちを経営者と対立する労働者として認知しているがゆえに連帯・団結することでそういった自由を勝ち取ってきたという側面もある。「全員が経営意識を持っている」ような場合にはそういった労働者としての連帯意識は構築されにくい。各自が経営意識を持ち、利益に敏感で、営業職でなくとも営業感覚を持つことが期待される職場では、「意欲・適性・能力」というあいまいな基準で駆り立てられつつ、働き手は自らを複雑な職務配置のなかに投げ込み続け、労働環境の自律性を放棄しているのである。

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

雇用不安 (岩波新書)

雇用不安 (岩波新書)

ISA Yokohamaで司会と報告

来週からの世界社会学会@横浜で、オーガナイザ(たぶん司会)と報告をひとつずつやります。参加者の方、会場でお会いしましょう。

セッション・オーガナイザ
JS-61: Panel Data Analysis of Families Worldwide
Thursday, July 17, 2014: 5:30 PM-7:20 PM, Room: 303

報告
878: Construction of Composite Index: Methodological Innovation
"Constructing Social Cleavage Indicators Using the Mixed-Effects Model"
Tuesday, July 15, 2014: 10:45 AM, Room: Booth 53

今年度の目標(2014年度版)

あれから一年経ちました。まずは「2013年度の目標」の振り返りから。

  • テキストの出版:ひとつ(S社)の方は、いちおう9割型仕上げて原稿を預けることができました。もうひとつ(U閣)の方は、いちおう仮目次はできてます。(執筆はこれから。)
  • 計量社会学のテキストの編集・執筆:執筆者の方の原稿がひと通り揃いましたが、これからが勝負。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:少しずつ..。
  • 論文をひとつ英文ジャーナルに投稿。無理なら邦文ジャーナル:トロント大学の先生と共著の論文を投稿済み、審査待ち。

次は、今年度の目標。

  • テキストの出版:S社の方は、秋までにはなんとか。U閣の方も、徐々に進めていくつもり。
  • 新書の出版:昨年度にC社からお話をいただき、現在執筆中。
  • 計量社会学のテキストの編集・執筆:予定では2014年度中なので、やるだけやっていく。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:少しずつ..。(今年度は無理でも、せめて半分は済ませたい。)
  • パネル調査・分析の入門書の出版:まだ出版社を探しているところ。

ここのところ(呼ばれたの以外で)学会発表してないので、何かしなきゃと画策中。

Motion Chart更新

各種Motion Chartがリンク切れしていて見られなかったので、やっと直しました。

ご確認頂き、不具合あればお知らせください。

科学における不正と発見

「あの件」については何も意見とか書いてなかったのですが(たくさんの人がたくさんの興味深いことを書いてくれているので)、ひとつだけ気になったことがあります。

何かしらすごい科学的発見があって、その発見をした人が何らかの理由でその発見を露骨に不正な手続きで世に出して、その不正のゆえにその科学的発見が一定のあいだ認められなかった、という事例は、これまでどれくらいあるのかな、ということです。(「ないだろう」と思っているわけではなくて、事実としてそういうことがよくあるのかどうか知りたい、ということ。)

一部の科学哲学では「発見の文脈」と「正当化の文脈」を分けているので、この分け方を使うとすれば、発見においてはひらめきでも夢のお告げであっても、科学的に非難されることはあまりないでしょう。しかしその結果を正当化する文脈では、現在の科学コミュニティは(総体として)それなりに厳しいスタンスをとっています。

そこで、これまで科学史上で大きな発見をしてきた人が、正当化のプロセスで露骨・稚拙な捏造をしていた、という事例はあるのかなあ、という疑問がわいたわけです。

たとえば、誰かが「DNA二重らせん構造」を直感的に「発見」したとします。そして、その理論を使えば確かにいろんなことを説明できそうなので世に出そうとした。しかし実験による厳密な証拠集めが思うように集まらなくて、論文を書くときに捏造資料を使ってしまった。そして後にきちんとした手続きで理論の「正しさ」が証明された。こういうような事例です。

逆の事例、つまり発見自体は「間違い」であったが正当化の手続きは(それなりに)適切であったような事例はたくさんあって、科学哲学者や科学史家はむしろそちらに注目してきたのだと思います。なぜなら、私たちはなんだかんだで正当化に興味があるので。(そもそも発見のプロセスについて理屈でいろいろ言ってもあまり実りがないでしょうから。)

個人的には、そういう事例(「正しい」発見の正当化で露骨な捏造をやってしまったような事例)はあまりないのではないか、という気もします。そのように考える理由は以下のとおりです。

まず、正当化のプロセス(実験や調査観察をして論文を書くこと)からは独立に「発見」されるような新理論があるとすれば、それはいろんな現象をかなり首尾よく説明できるようなものであることが多いでしょう(アブダクションというやつです)。「ひらめいた!これならいろんなことを説明できる!」ということはありそうですが、「ひらめいた!何を説明できるでもないけど、データで確かめてみよう!」というのはあまりなさそうな気がします。

したがって、理論を発見した人は、データによる精緻な正当化は他の人に任せて、思いついた理論だけを提示してもある程度業績になって、しかもその発見の功績が最終的には自分のものになるのならば、あえてデータを捏造する動機がそれほどは出てこないのではないか。もう少し言えば、いろんなことを首尾よく説明できるという「ゆるい正当化」が、厳密な実験による正当化のかわりになっている。

逆に「発見」が厳密な正当化のプロセスに依存するような場合は、手続きの捏造の動機が生まれえます。

しかしまあ、以上の考察は「でかい発見というのは理論的なもの(でもある)だろう」という前提でなされているので、多少あやふやなところもあります。

今回(STAP現象)のケースがどのように位置付けられるのかはまだ不明ですが(再現実験は一部でまだ継続中のようなので)、いろいろ考えさせられる一件です。私が特に思うのは、捏造を批判することが、発見(の可能性)をも否定していることにはなっていないというのはそうだろうし、ここはちゃんと区分けしたほうがよい、ということです。なぜなら、露骨で稚拙な不正が発見の文脈でポジティブな意味を持つことはあまりないだろう、と思うからです。

それともほんとはそうではないのでしょうか。つまり、他の条件が同じならば、手続きの不正をするような(変な意味で)「貪欲」な人の方が、重要な科学的発見をしやすい、という傾向が強くあったりするのでしょうか。

というわけで、最初の問に戻っていくわけです。

『社会調査のための計量テキスト分析』

同僚の樋口先生よりいただきました。ありがとうございます。最近KH-Coderを触るようになったので、この際きちんと計量テキスト分析を勉強したいと思います。

社会調査のための計量テキスト分析―内容分析の継承と発展を目指して

社会調査のための計量テキスト分析―内容分析の継承と発展を目指して

『比較福祉国家:理論・計量・各国事例』

下記の本で、ひとつの章を執筆させていただきました。

比較福祉国家: 理論・計量・各国事例

比較福祉国家: 理論・計量・各国事例

担当したのは、
第II部 福祉国家の計量分析
第5章 マルチレベル分析:態度と価値観における国家と個人の分析
です。世界一易しい(当社比)マルチレベル分析の解説にもなっています。

目次はこちらから。

全体として、比較福祉国家についてのバランスのとれたテキストだと思いますので、みなさまぜひご覧になってください。