社会学者の研究メモ

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ISA Yokohamaで司会と報告

来週からの世界社会学会@横浜で、オーガナイザ(たぶん司会)と報告をひとつずつやります。参加者の方、会場でお会いしましょう。

セッション・オーガナイザ
JS-61: Panel Data Analysis of Families Worldwide
Thursday, July 17, 2014: 5:30 PM-7:20 PM, Room: 303

報告
878: Construction of Composite Index: Methodological Innovation
"Constructing Social Cleavage Indicators Using the Mixed-Effects Model"
Tuesday, July 15, 2014: 10:45 AM, Room: Booth 53

今年度の目標(2014年度版)

あれから一年経ちました。まずは「2013年度の目標」の振り返りから。

  • テキストの出版:ひとつ(S社)の方は、いちおう9割型仕上げて原稿を預けることができました。もうひとつ(U閣)の方は、いちおう仮目次はできてます。(執筆はこれから。)
  • 計量社会学のテキストの編集・執筆:執筆者の方の原稿がひと通り揃いましたが、これからが勝負。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:少しずつ..。
  • 論文をひとつ英文ジャーナルに投稿。無理なら邦文ジャーナル:トロント大学の先生と共著の論文を投稿済み、審査待ち。

次は、今年度の目標。

  • テキストの出版:S社の方は、秋までにはなんとか。U閣の方も、徐々に進めていくつもり。
  • 新書の出版:昨年度にC社からお話をいただき、現在執筆中。
  • 計量社会学のテキストの編集・執筆:予定では2014年度中なので、やるだけやっていく。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:少しずつ..。(今年度は無理でも、せめて半分は済ませたい。)
  • パネル調査・分析の入門書の出版:まだ出版社を探しているところ。

ここのところ(呼ばれたの以外で)学会発表してないので、何かしなきゃと画策中。

科学における不正と発見

「あの件」については何も意見とか書いてなかったのですが(たくさんの人がたくさんの興味深いことを書いてくれているので)、ひとつだけ気になったことがあります。

何かしらすごい科学的発見があって、その発見をした人が何らかの理由でその発見を露骨に不正な手続きで世に出して、その不正のゆえにその科学的発見が一定のあいだ認められなかった、という事例は、これまでどれくらいあるのかな、ということです。(「ないだろう」と思っているわけではなくて、事実としてそういうことがよくあるのかどうか知りたい、ということ。)

一部の科学哲学では「発見の文脈」と「正当化の文脈」を分けているので、この分け方を使うとすれば、発見においてはひらめきでも夢のお告げであっても、科学的に非難されることはあまりないでしょう。しかしその結果を正当化する文脈では、現在の科学コミュニティは(総体として)それなりに厳しいスタンスをとっています。

そこで、これまで科学史上で大きな発見をしてきた人が、正当化のプロセスで露骨・稚拙な捏造をしていた、という事例はあるのかなあ、という疑問がわいたわけです。

たとえば、誰かが「DNA二重らせん構造」を直感的に「発見」したとします。そして、その理論を使えば確かにいろんなことを説明できそうなので世に出そうとした。しかし実験による厳密な証拠集めが思うように集まらなくて、論文を書くときに捏造資料を使ってしまった。そして後にきちんとした手続きで理論の「正しさ」が証明された。こういうような事例です。

逆の事例、つまり発見自体は「間違い」であったが正当化の手続きは(それなりに)適切であったような事例はたくさんあって、科学哲学者や科学史家はむしろそちらに注目してきたのだと思います。なぜなら、私たちはなんだかんだで正当化に興味があるので。(そもそも発見のプロセスについて理屈でいろいろ言ってもあまり実りがないでしょうから。)

個人的には、そういう事例(「正しい」発見の正当化で露骨な捏造をやってしまったような事例)はあまりないのではないか、という気もします。そのように考える理由は以下のとおりです。

まず、正当化のプロセス(実験や調査観察をして論文を書くこと)からは独立に「発見」されるような新理論があるとすれば、それはいろんな現象をかなり首尾よく説明できるようなものであることが多いでしょう(アブダクションというやつです)。「ひらめいた!これならいろんなことを説明できる!」ということはありそうですが、「ひらめいた!何を説明できるでもないけど、データで確かめてみよう!」というのはあまりなさそうな気がします。

したがって、理論を発見した人は、データによる精緻な正当化は他の人に任せて、思いついた理論だけを提示してもある程度業績になって、しかもその発見の功績が最終的には自分のものになるのならば、あえてデータを捏造する動機がそれほどは出てこないのではないか。もう少し言えば、いろんなことを首尾よく説明できるという「ゆるい正当化」が、厳密な実験による正当化のかわりになっている。

逆に「発見」が厳密な正当化のプロセスに依存するような場合は、手続きの捏造の動機が生まれえます。

しかしまあ、以上の考察は「でかい発見というのは理論的なもの(でもある)だろう」という前提でなされているので、多少あやふやなところもあります。

今回(STAP現象)のケースがどのように位置付けられるのかはまだ不明ですが(再現実験は一部でまだ継続中のようなので)、いろいろ考えさせられる一件です。私が特に思うのは、捏造を批判することが、発見(の可能性)をも否定していることにはなっていないというのはそうだろうし、ここはちゃんと区分けしたほうがよい、ということです。なぜなら、露骨で稚拙な不正が発見の文脈でポジティブな意味を持つことはあまりないだろう、と思うからです。

それともほんとはそうではないのでしょうか。つまり、他の条件が同じならば、手続きの不正をするような(変な意味で)「貪欲」な人の方が、重要な科学的発見をしやすい、という傾向が強くあったりするのでしょうか。

というわけで、最初の問に戻っていくわけです。

『社会調査のための計量テキスト分析』

同僚の樋口先生よりいただきました。ありがとうございます。最近KH-Coderを触るようになったので、この際きちんと計量テキスト分析を勉強したいと思います。

社会調査のための計量テキスト分析―内容分析の継承と発展を目指して

社会調査のための計量テキスト分析―内容分析の継承と発展を目指して

『比較福祉国家:理論・計量・各国事例』

下記の本で、ひとつの章を執筆させていただきました。

比較福祉国家: 理論・計量・各国事例

比較福祉国家: 理論・計量・各国事例

担当したのは、
第II部 福祉国家の計量分析
第5章 マルチレベル分析:態度と価値観における国家と個人の分析
です。世界一易しい(当社比)マルチレベル分析の解説にもなっています。

目次はこちらから。

全体として、比較福祉国家についてのバランスのとれたテキストだと思いますので、みなさまぜひご覧になってください。

Stata第2版ウェブサイト移転

都合により、『Stataで計量社会学入門[第2版]』のウェブサイトを移転しました。以降は下記をご使用ください。

http://www.ritsumei.ac.jp/~tsutsui/stata_econ_2/

Stataで計量経済学入門 第2版

Stataで計量経済学入門 第2版