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社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

人間と社会

とあるところで、「社会は人間に還元できるか」みたいなことをめぐってやりとりがあったようだ。こういう問は、それが発せられる文脈によって全く答えが変わってくるので、「場合による」としか答えられないのだろう。「人間」も「社会」も言葉であって、言葉以前からあるものではない。とはいえ、問と答えが生産的になるには、ここを到達点とするのではなく、出発点としなければならない。依然として腐った私の理論脳を活性化させるために少し考えてみた。

まず気をつけなければならないのは、社会学理論などの文脈で「人間」というとき、それは「ある意思や目的を持っていて、それを実現すべく行動する主体」という意味合いがある、ということ。だから「人間と社会」という対比があるときは、「社会」の側には「人の行動によって作られているのにも関わらず、多くの(場合によっては全ての)人の意思とは関係なく存在し、たまに多くの人を不幸にするように作用する」という意味が込められている。

景気循環なんかが典型的だろう。世の中の誰一人として「景気が悪くなればいい」と思ってなくても、景気は悪くなる。あるいはもっとでかく「産業化」。誰も自分を不幸にしようとはしてないはずなのに、いつのまにか環境破壊とか働き過ぎとかで不幸な自分がいる。「なんで?」となる。そこで経済学や社会学が登場してきて、このような「意図せざる結果」を「人間=人々の意思」から距離を取って説明しようとする。

20世紀以降の社会理論は大枠としてこのように進んできたはずだ。現実に乖離している「主観」(意図)と「客観」(現実)があり、後者を説明する概念装置として、無意識(精神分析)とか構造(構造主義)などが考案されてきたわけだ。これに対してポスト構造主義は、「そんなの、想定=把握したとたん主観から逃げてくんだぜ」と反論した。次に、これら二つをつなぐ社会理論(ギデンズとか)が提起された。さらにエスノメソドロジーとかが登場してきて、まっとうな「言葉(会話)」の地平を出発点に概念を引き戻していく流れも生まれつつある*1

さて、人々の意思を離れて存在する「社会」なるものの存在を否定することからはどういった態度が生まれるか。ひとつには、ポパーのいう「陰謀理論」が生まれる。陰謀理論では、景気が悪いのは誰かが悪巧みして自分だけ儲けようとしたからだ、となる。

あるいは広義の主観主義が帰結する。これだと、景気が悪いのは、誰か(政府の人)が判断をミスったからだ、となる。人間なら自分の構成物を把握できるはずだ、というこの発想は、現象学にも通じる。

私自身はここで、「いや、人間は自分の構成物(社会)を原理的に把握できない」と言ってしまうよりも、ここでも経済学と同じく限界革命を導入して、「そんなのふつうはコストがかかりすぎて無理」というふうに考えた方が有用だと思う。人間は、ある程度状況を把握して目的を実現することができる。しかし認識のための能力や、それに必要な資源(権力や経済力)は完全ではないし、もっと大事なことには「不均等に配分」されている。今の社会学は、「人間か社会か」という理論的な問を離れて、すでにそういった不均等配分について経験的に考察する段階に来ていると思う。

*1:妙に潔癖性のところがあるけど。