社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

『仕事と家族』重版

おかげさまで、拙著『仕事と家族』が重版になりました。

また、不動産協会からをいただきました!

以上に付き、いろいろな方に感謝申し上げます。

『計量社会学入門』出版のお知らせ

企画開始から3年余、ようやく世に出ました! 基礎手法、分野別研究解説、用語解説など充実した内容です。計量社会学の全体の姿を把握できる数少ない本だと思いますので、ぜひ教科書、参考書等でのご活用を検討ください。

計量社会学入門―社会をデータでよむ

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『仕事と家族』Kindle版

おかげさまで(概ね)好評の拙著、『仕事と家族』(中公新書)のKindle版が出てました。

ebookjapanからも本書の電子書籍版を入手できます。

「公共性」ノート:『公共性の構造転換』第五章

第二弾はお馴染み、第二世代フランクフルターの旗手、ハーバーマスの『公共性の構造転換』。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

これはレビューがたくさん出ているので「いまさら」な古典ですが、第5章「公共性の社会的構造変化」を中心に、気になったところを少しだけピックアップ。

第十六節 公共圏と私的領域との交錯傾向

ハーバーマスの公共性の構造転換の一番のポイントは、公共圏の変質というよりは、その背景にある「国家と社会の分離とその後の交錯(相互浸透)」であると思う。国家(公権力)と社会(ブルジョア社会)の分離を社会経済的前提として、その間に成り立つのが市民的公共圏(討議空間)であるので、国家と社会の分離がなくなれば市民的公共圏もその基盤を掘り崩されてしまう。この節ではその「国家と社会の交錯」が時代的にどの部分を指しているのかが述べられている。

この私生活圏(民間領域)は、重商主義的統制から解放されるにつれて、はじめて私的自律の圏として展開していく。やがてこの傾向は逆転して、十九世紀の最後の四半期以来、国家の干渉政策がはっきりと増大していくが、それだけではまだ公圏が私的領域と交錯することにならない。しばしば新重商主義と呼ばれるこの干渉政策は、国家と社会の分離を維持したままで、それを跨いで民間人の自律を制限しうるが、彼らの交渉の私的性格そのものは侵害されずにいることができるであろう。(197-8頁)

つまり、公権力側からの私的領域への介入(前者による後者の重商主義的な利用)だけでは「分離」がなくなったことにはならない。

こうした事態(注:資本集中)の推移する中で、市民社会は権力の面で中立化された圏であるという外観をあとかたもなく放棄しなくてはならなかった。この自由主義モデルは、実は小規模商品経済のモデルであって、個々の商品所有者たちの横の交換関係のみを念頭において作られていた。自由競争と独立価格が守られるならば、何びとをも他人を自由に支配できるほどの権力を取得し得ないはずだと解かれていたのである。...集中と恐慌の過程は、社会の敵対的構造から等価交換のヴェールを剥ぎ取る。社会が単なる今強制体系であることがみえすいてくるにつれて、強力な国家を求める声が切実になる。(200頁)

微妙に雑な経済史的記述だが、擬制的にせよ「経済的に自立した市民(資本家)による自由な討議空間」の成立と衰退を軸に歴史記述されているわけなので、一応一貫していると思う。

一方では、商品交易という私的生活圏において大勢力が集結し、他方では、公共性が国家機関として確立されて万人の参加が制度的に約束されたために、経済的に弱い立場にある人々のうちに、市場で優位である者に対して政治的手段で対抗しようとする傾向がつよまった。(201頁)

要するに労働者階級による政府にする再分配的介入の要請だが、市場ではなく「国家自身が製造と分配の面で活動」することが多くなることは、政府による「国民経済総計算」に基づいた経済的介入の本格化と、福祉国家化に伴う政府によるサービス給付の増加などにみてとれる、とされている(203頁)。

ちなみに、このあたりの歴史記述にはケインズ、ヒックス、マクロ経済学といった言葉は登場しない。なんだか変なところでバーリとミーンズが参照されているし(注11。あえて参照するなら、時代は違うがコーポレート・ガバナンスとかだろうか)、やはりH氏の経済史の見方は多少変則的なのであろう。

さらに、社会サービスのくだりは、H氏の記述が社会学社会政策学の標準理論とニュアンスを異にしているところでもある。この標準理論とはすなわち、「(雇用労働化によって)経済的に自立した個人が家族から、やがて経済的に自立した女性が男性から独立するプロセスに対応して、(家族や男性ではなく)政府が生活保障を担うようになる」という認識である。一方で「政府の社会支出はいかにして増えるのか」「福祉国家はいかにして成立するのか」という問題設定があり、他方では同じプロセスが「個人の政府への依存(による公共圏の崩壊)」として理解されているわけだ。

(このあと展開される公法と私法の交錯の議論は省略。)

第十七節 社会圏と親密圏の両極分解

この節は、ブルジョア市民社会の私的領域が(今度は)分離していくプロセスの記述。職場が公的な空間になっていくのと同時に、小家族的親密性の領域は収縮していく、と書かれている。つまり、ブルジョア社会の私的経済領域が国家と相互浸透をするのと同時に、そこから家族が排除されていくプロセスである。

工業的大経営の発展は直接に、官僚的経営の発展は間接に、資本の集中度に依存している。両者のいずれにおいても、私的職業労働の類型とは質的にことなる社会的労働の諸形態が発展する。形式的にみれば企業は私的領域に属し、官庁は公的領域に属するわけであるが、労働社会学的にみれば、この形式的分類には明瞭な境界がなくなる。...もちろんこの発展は、生産手段の所有者の自律を形式的に維持しながら、実質的にはその私的性格を奪うという過程にも基づいている。(208頁)

これは「職場の準公共領域」化(210頁)とも言われているが、社会学ではお馴染みの官僚制的組織が行き渡る過程に対応している変化であろう。H氏は、(少なくともここでは)目的合理性というよりは資本集中と国家行政の肥大化に官僚制的システムの一般化の要因をみているようだ。

ここでひとつツッコミをいれたくなる。

初期資本主義段階(H氏の言葉では「小規模商品経済のモデル」)における、自立した個人資本の対等な位置での取引ではなく、組織が形成されるということは、経済学的には別様に記述できる。というより、経済学的には「どういった場合に市場取引ではなく組織が形成されるのか」が説明できる(R.コースとその後の新制度派の議論)。

市場と企業組織

市場と企業組織

このモデルでは、資本集中は外生ではなく内生的にモデル化される。「組織を形成することが効率性の点で非合理的である場合も理論的に想定できるかどうか」はかなり大事だと思う。本書の議論にとって本質的なポイントではないが、ここは(残念ながら)社会学全般がウェーバーに引きずられてちゃんと議論していない点なので、一応。

次は家族。

職業圏が自立化するのと同じ度合いで、家庭は内へ引きこもっていく。自由主義時代以来の家庭の構造変化の特色は、消費機能が増して生産機能が失われたという点にあるよりも、むしろ家庭が社会的労働一般の機能体系から次第に脱落していったという点にある。(210頁)

こういった変化の帰結としてH氏が注目するのは、次の2点にまとめられる。

  • かつては「市民社会の交換関係はブルジョア家族の人間関係の中へ深く作用を及ぼしていた」のに、それがなくなった。こうして「公共性の社交に向かって開かれたその開放性」(213頁)あるいは「公衆への関心を持つ私人」(215頁)の経済的基盤が失われる。
  • 「危急時の自給や老年期の自活の可能性を家庭から奪う」。要するに福祉国家化である。

こういった論点は、「人格的内面化」の機能が家族から家族外に移されるという議論にもつながっている。H氏によればこれは「家族的親密性の空洞化」である(213頁)。

「親密な領域への撤退」ではなく、親密性が空洞化し、「擬制」的なものになっていく、という理解である。第二章の「文芸的公共圏」の議論でもそうだが、H氏にとっての「親密性」は「自立して公共圏に関わっていく市民」のエートスを形成する保護繭のようなものである。だからこそ「小家族的親密性」が公共圏の基礎になっていたのだが、いまや個人は直接に公的な影響力にさらされるようになった。

第十八節 文化を論議する公衆から文化を消費する公衆へ

市民的公共圏が機能していたときは、ブルジョア=財産所有者は「生活の必要に迫られた生産と消費の循環」(216頁)から自由だったのだが、この条件は失われた。

私人の自律は今では私有財産の処分権の中に本源的に基礎をもつものではなくなって、私生活の公共的身分保障から派生した自律となってしまったので、「人間」が(かつてのようにブルジョワとしてではなく)市民(citoyen)として、政治的に機能する公共性を媒介にして彼らの私的生活の条件を自分の手中に掌握するときにのみ、実現されるであろう。しかしそれは当面のところ期待できない。(217頁)

こうなると、保護された私的空間でじっくりと読書して、知を習得してから公共圏で議論をするということがなくなる。「家庭がその文学的連関を失う」(219頁)、「習得された内容についての公的コミュニケーションも脱落する」(同)といった記述がある。同時に、かつては(商業化によって「庇護者や貴族的通人の専用から解放」(221頁)されて有産市民に行き渡ることになった)文芸作品について「討議」することは自由であったのに、いまでは討議そのものが商品化されてしまう。

今日では、対話そのものでさえ管理されている。縁談上の専門的対話、公開討論、ラウンド・テーブル・ショーなど、私人たちの論議はラジオやテレビのスター番組となり、入場券発行の対象になり、だれでも発言に「参加できる」場合でさえ、商品形態をとってくる。討論は「ビジネス」に引き入れられて、形骸化する。(220頁)

繰り返し述べられているが、文化に対して市場が果たした役割は二義的である。

ひとつの場合には、市場は公衆にまず文化財への通路を開き、やがて製品の価格引下げにともなって、ますます広い公衆にその参加を経済的に容易にする。もうひとつの場合には、市場は文化財の内容を自分の需要に順応させ、こうして広汎な層に心理的にも参加を容易にする。(222頁)

こういった見方はむしろ一般的であろうが、H氏の場合には、文化の商品としての流通とそれについての教養を伴った討議が首尾良く切り離されていた(極めて特殊な)時代・地域の経済社会的条件を記述しようとしたのだろう。

似たような議論、すなわち「入場条件」を切り下げて開かれた空間になると、内容的な低廉化が生じる、という議論は、インターネットのコミュニケーション空間についても言われているような気がする。かつては学識と倫理感のある人たち(学者やエンジニア)のみがネット空間での討議に参加していたのが、いまや...といった見方である。

他方で、H氏は私的(親密性の)空間と公共圏の相互浸透のような事態にも注目している。

親密圏が文芸的公共性に対してもっていた本来の関係は逆転する。公共性へ関心を抱いていた内面性は、傾向的には、親密性へ関心をもつ物象化へ席をゆずっていく。私的生活の問題性は、ある程度まで公共性によって呑み込まれ、公論的権威の監督下で解体されないまでも普及される。他面において私生活の意識はまさにこういう公共化によって高まる。これによって、マス・メディアが作った圏が二次的な親密性の相を帯びてきたからである。(228頁)

(ちゃんと理解できていないがおそらく)かつて市民は、自立した親密圏(ブルジョア小家族)の内部で自分の内面について充分な思索・反省をめぐらした上で、つまり思索の訓練を受けた上で文芸的公共圏(サロンや読書会)に参加していた。経済的に自立した市民が政治的討論を行うのとパラレルに、心理的に自立した市民が文芸作品について討議をしていた、という話なのだろう。

ところがこの心と物質の繭の殻は破られてしまう。市民は、メディアを通じて供給される薄っぺらなドラマやメンタルサポートのメッセージを受動的に消費するだけの存在になってしまう。このあと229頁あたりでは、こういった文化消費を率先して行っていたのは実は成金(「その社会的地位がまだ文化的正統性の証明を欠いているような上昇中の集団」229頁)でしたよ、といった話になる。

このあたりは権威主義についての先行するフランクフルト学派研究者とある程度重なりあう認識なのかもしれない。とはいえ、公的領域と私的領域の分離とその後の相互浸透、という(この本の核となる)図式はH氏のオリジナルであろう。

第十九節 基本図式の消滅 市民的公共性の崩壊の発展経路

この節は「まとめ」。しかも最重要箇所。この節だけ読んで理解できれば、あとのところは読まなくても趣旨がわかっている、ということだと思う。特に232頁の最初の段落はまとめ中のまとめになっている。

市民的公共性のモデルは公的領域と私的領域とのきびしい分離を基準にしており、そのさい、公衆として集合した私人たちの公共性は、国家を社会の要請と媒介しながらも、それ自身は私的(民間)領域に属していた。しかし公的領域と私的領域の交錯が加わるにつれて、このモデルはもう適用されなくなる。すなわちそこには、社会学的にも法律学的にも公私のカテゴリーには包摂しきれない特殊な、再政治化された領域とが、政治的に議論する私人たちによる媒介なしに浸透し合う。(232頁)

このあとも、文芸的公共性と政治的公共性との関係について述べられていたりして、重要箇所が多い。第5章第十九節はこの本の核となる部分だといえるだろう。

とりあえずここまで。

「公共性」ノート:再分配か承認か

某出版企画で「公共性(公共圏)」や「市民社会」について書くことになりました。いろいろ復習しなきゃならなくなりましたので、ノートを作っていきます。(ひっそり作っていくと飽きるのでいくつか記事にします。)

第一弾はナンシー・フレイザーandアクセル・ホネット。

再配分か承認か?―政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

再配分か承認か?―政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

上記の2章、ホネット「承認としての再配分」の読書メモ。

第1節 社会的不正の経験の現象学について

ホネットがいうには、フレイザーは社会運動を批判理論の拠り所にする際、「社会運動は再分配を主張するものから、アイデンティティ・ポリティクスの理念に則った<新しい社会運動>に変化した」と考えていて、ホネットからすればこれは次の三つの段階で間違っている。

  • 政治的公共圏において「運動」として認められていないコンフリクトが日常の生活にはたくさんあるが、公共圏で承認を得るのはその中の一部だけ(なのにそれを出発点とするのはダメ)。しかもフレイザーが注目しているのはアメリカの社会運動で、地域的に限定されているのに、一般化しすぎ。
  • 集団の承認を得ようとするアイデンティティ・ポリティクスには、原理主義や排外主義的ナショナリズムなどいろいろあるだろうに、フレイザーの議論ではそういった運動が排除された上で、社会運動が批判の準拠点になっている。恣意的に線引(除外)しているはずなのに、そのことについて説明がない。
  • 経済的な分配を巡る闘争も、(その他の最近の社会運動と同じく)承認を求める闘争として理解できる(のに、経済/文化の二元論的枠組みに立脚している)。(「承認概念が今日中心的な意味を持つのは、それが新しいタイプの社会運動の目標設定を表現しているからではなく、社会的不正の経験全般をカテゴリー化して読み解くうえで承認概念が適切な手段であることが明らかになったからにほかならない。」148頁)

特に三点目は重要。経済的な分配を巡る運動(たとえば労働運動や社会主義運動)は、何らかの価値観(正義、公平等)に依拠していたり、そうでなくともしばしば生存権の主張という尊厳に関わるものであったので、単なる「カネよこせ」という要求とは異なったものだった。

第2節 資本主義的な承認の秩序と配分を巡る闘争

まずは三つの承認の圏域(愛、平等原理、業績原理)の説明がなされ、さらに業績については、資本主義社会では「何が業績として評価されるか」についての共通了解において「市民階級の男性の経済活動」が規範的に準拠点となっているということが指摘されている。つまり、業績に基づいた秩序といっても、規範から自由であるわけではなく先に相互了解があるのであって、しかもその了解は揺らぎないものではない。

「市民社会」ということでいえば、上記の三つの承認圏域はヘーゲル法哲学の「家族・市民社会・国家」にならったものだ、と書かれている(162頁)。しかしこれは「相互承認の圏域の分化」という発想において「同一の思想が再現」されているということで、あまり気にしなくてもいいかも。(それでも164頁では「平等原理」が市民社会に、業績原理が「国家」に対応していると書かれているが、そういうものなんだろうか。ヘーゲルの「市民社会(ブルジョア社会?)」は「利己的な個人の欲求が交差する社会」だと理解されていることもある。ハーバーマスの市民社会概念も私的経済圏を含むので、それに近いような。)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

いずれにしろホネットは、承認の圏域を、特定の時代に存在する制度的複合体(国家や家族)に対応させることは無理筋だ、ということを主張したいのである(165頁)。

どの承認原理でも一定のゆらぎ、あるいは「妥当性の過剰」(298頁)があって、それゆえに原理の解釈についての承認の闘いがある、というのがホネットの議論の特徴である。たとえば業績原理については「自然主義的な表象群」が意味の確定に一役買っている。「女性は本質的に◯◯だから、ケア労働は業績にカウントしない」といった解釈である。

また、ホネットにとっては福祉国家化は以下のように理解されている。

社会福祉国家的な構造変革プロセスにおいて資本主義的な承認秩序の内部で起きている変化とは、平等な法的取り扱いという原理がこれまでは自律的であった社会的価値評価の圏域への浸透のことだと理解するのが最もよいだろう。(169頁、訳文ママ)

これは、福祉国家化を「社会(市民社会)と国家の相互浸透」として記述した『公共性の構造転換』におけるハーバーマスの枠組みとはずいぶんと違う捉え方(というか私たちの実感にも、そして「社会権」概念にも近い捉え方)である。

170頁からは、ふたたびフレイザー批判。論点はさきほどすでに提示されている。平等原則や業績原理がもつ「道徳的な秩序形成の力」と、アイデンティティを巡る闘争あるいは「文化的な承認」とを分けて考えることのデメリットについて。これは社会的価値評価がジェンダーに影響されていることにもみてとれる。家事労働が労働として低く評価されたり、あるいは全く同じ職業でも女性が多数派を占めると途端に価値が低く見積もられたり、といったことが引き合いに出されている(174頁)。

また、法的平等の承認においても同様で、以下のように述べられている。

チャールズ・テイラーによれば、平等を巡る闘争は文化的な「差異」の承認に対する要求は無関係なまま、歴史のなかでいわば克服された局面にすぎない。しかしこうした見解は(中略)次のような理由から私には誤った発想であると思われる。それは、法的な承認を闘い取る場合も、平等原理を規範として、これまではまだまったく法的に顧慮されてこなかったそれぞれ特別な生活状態の「差異」に妥当性が与えられる以外に、これは行われないという理由である。(172頁)

第3節 承認と社会的正義

最初に論じられているのは、アイデンティティ・ポリティクスと承認原理との関係について。

アイデンティティ・ポリティクスはまず、個人主義的な要請を持つ。すなわち、承認を求めるある集団に属する個人の権利が不当に抑圧されている場合、それを撤廃することを要求する、ということ。したがってこの要請はすぐさま法的平等の枠組みに回収される(186頁)。

これに対してアイデンティティ・ポリティクスの「コミューン的性格」においては、「共通の集団生活の確保と改善」が目指される。コミューン的目標には、3つのものがある(187頁)。

  • 「集団の文化的再生産に否定的な影響を与えるかもしれない外的介入を防ぐ」という目標。教育を通じた言語の統一への抵抗、などでしょうか。これも「基本的権利」(言論、集会、宗教の自由)を使って闘われる。
  • 「文化的共同体の特定の措置をとり続けること(服装規定、戦いの取り決めなど)が支配的法則(ママ。法律?)からの例外として認められなければならない場合」。これには深刻なコンフリクトが生じうる。この場合、平等原理に立脚して文化的アイデンティティを守るためには、「そうした集団(注:マイノリティ集団)は、そのような資源ないし予防措置(注:たぶん表面的には法律に違反する慣習など)がなければ、将来、生活に密着した固有の生活形式および文化を維持することはできなくなる」ことを示すことが必要になる。
  • 「社会のメジャー文化から承認もしくは尊敬されるという目標」。文化の存続といった間接的な要求ではなく、直接的評価を求める運動(188頁)。

3つ目だが、それが不当な誹謗中傷を浴びない権利として捉えられた場合、やはり現行の法制度で対応する動きもありうる(ヘイト・スピーチ訴訟などはそれにあたるだろう)。それを乗り越えて、マイノリティの文化共同体がそれ自体の価値評価を求める場合には、さらに2つの方策がありうる(190頁)。ひとつは業績原理を拡張しつつ、当該文化共同体が社会の再生産に本質的に貢献していることを示すこと。しかしこれは困難なことがある(たとえば実質的に使用されていないマイノリティ言語を存続させることの社会的意義、などはこれか)。もうひとつは、「一切の確立されている価値関連から独立に」絶対的な価値を主張することであり、これには多少無理が伴う。

結局のところ、ホネットはアイデンティティ・ポリティクスが「愛・平等・業績」の三つの承認原理に「第四」の承認原理を付け加えるという見方には否定的であるようだ。「そうしたレトリック的定式を用いることで今日提起される圧倒的多数の要求が、支配的な承認秩序の規範的地平を超えることは結局のところない。」(193頁) したがって「ナンシー・フレイザーが用いるような「文化的」承認の概念は、文化的コンフリクトの戦線の解明よりもむしろその混乱に拍車をかける」(194頁)と手厳しい。

とりあえずここまで。

感想

ホネットの承認概念は「何が基準として通用するのか」(たとえば何が個人の業績としてカウントされ、何がされないのか)という認識枠組みを受け入れたり拒否したりすることについても適用されるために、再分配を含む広い問題を包括的に論じることができているようにみえる。しかしこのことを指すために承認という概念を用いるのは、よろしくないかたちの概念拡張(concept streching)の疑いをかけたくなる。こういう概念拡張をしていると、無用の批判を呼び込んでしまってあまりよいことがない(実際そうなっている)。

たとえば公平性と効率性のどちらを優先するか、ということは、ホネットが好む「侮辱」や「社会的な不快さ」という基底的な経験(フレイザーの表現だと「前政治的苦難経験」224頁)に基づかなくとも、議論されたりその都度決定されたりすることだ。

ついでに。

訳本について、凡ミス(タイポ)がちょこちょこあるのは愛嬌(?)として、たまに翻訳自体がヘンなことが...。特に気になったのは人名。明確な「間違い」ではないだろうけど、A.ハーシュマン(Hirschman)は「ヒルシュマン」になっている(注には「A. Hirschmann」なる文字列があるが、これはたぶんホネット自身のミスだろう)。また、R.イングルハート(Inglehart)が「インゲルハート」になってるし。綴りからしてもそう読む可能性はない...というか、一度でもググれば間違わないだろうに。訳本のタイトルにしても、Umverteilungの訳語は「配分」じゃなくて「分配」の方がよかったかも(まあ、これは分野によって違うか?)。文章がものすごく読みにくい、というかんじではありませんでしたが、監訳者の加藤先生は最終的にもう一度通読すべきでした。

研究会のお知らせ:「社会科学における因果性」(追記あり)

(23日に追記。)まだ全然席に余裕あるので、直前までメール待ってます!(懇親会は予約しちゃいましたが。)

(8日18:00に追加情報あり。)

下記の要領で研究会を開催しますので、お知らせいたします。

報告タイトル:社会科学における因果性―現代科学哲学の観点から―

報告者:清水雄也(一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)

  • 日時:2015年7月25日(土)15:00〜17:30(予定)
  • 場所:キャンパスプラザ京都6階第1講習室(JR京都駅前徒歩5分)。入館後、エレベーターで6Fまでお越し下さい。降りて前方向かい側右端の部屋です。
  • 概要:「因果性とは何か」という問いをめぐる現代哲学上の諸議論について,基本用語の解説を交えつつ整理し,その概略的な見取図を提供します.その上で,介入説・多元論・文脈主義といった比較的新しい論点を取り上げ,それらの内容や問題点を可能な限り詳しく論じてみたいと思います.
  • 備考:参加は自由ですが、事前(21日までに)に下記メールアドレスまでお名前とご所属をご連絡ください。また、合わせて研究会後の懇親会の参加の意図についてお知らせください。(下記フライヤーも御覧ください。)

→参加確認用メールアドレス(担当:野村優):methodrits@gmail.com

研究会(「社会科学における因果性」)のお知らせ→causalityinsocialsciences.pdf 直

新刊案内『仕事と家族』

(5/16に追記)

5月25日発売予定の新刊の案内です。ここ最近いろんなところで書いてきたことに、いくつか新しい論考を加えています。

目次:
第一章 日本は今どこにいるか?
第二章 なぜ出生率は低下したのか?
第三章 女性の社会進出と「日本的な働き方」
第四章 お手本になる国はあるのか?
第五章 家族と格差のやっかいな関係
終章 社会的分断を超えて

Kindle等の電子書籍でも配信されます。