社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

「公共性」ノート:再分配か承認か

某出版企画で「公共性(公共圏)」や「市民社会」について書くことになりました。いろいろ復習しなきゃならなくなりましたので、ノートを作っていきます。(ひっそり作っていくと飽きるのでいくつか記事にします。)

第一弾はナンシー・フレイザーandアクセル・ホネット。

再配分か承認か?―政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

再配分か承認か?―政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

上記の2章、ホネット「承認としての再配分」の読書メモ。

第1節 社会的不正の経験の現象学について

ホネットがいうには、フレイザーは社会運動を批判理論の拠り所にする際、「社会運動は再分配を主張するものから、アイデンティティ・ポリティクスの理念に則った<新しい社会運動>に変化した」と考えていて、ホネットからすればこれは次の三つの段階で間違っている。

  • 政治的公共圏において「運動」として認められていないコンフリクトが日常の生活にはたくさんあるが、公共圏で承認を得るのはその中の一部だけ(なのにそれを出発点とするのはダメ)。しかもフレイザーが注目しているのはアメリカの社会運動で、地域的に限定されているのに、一般化しすぎ。
  • 集団の承認を得ようとするアイデンティティ・ポリティクスには、原理主義や排外主義的ナショナリズムなどいろいろあるだろうに、フレイザーの議論ではそういった運動が排除された上で、社会運動が批判の準拠点になっている。恣意的に線引(除外)しているはずなのに、そのことについて説明がない。
  • 経済的な分配を巡る闘争も、(その他の最近の社会運動と同じく)承認を求める闘争として理解できる(のに、経済/文化の二元論的枠組みに立脚している)。(「承認概念が今日中心的な意味を持つのは、それが新しいタイプの社会運動の目標設定を表現しているからではなく、社会的不正の経験全般をカテゴリー化して読み解くうえで承認概念が適切な手段であることが明らかになったからにほかならない。」148頁)

特に三点目は重要。経済的な分配を巡る運動(たとえば労働運動や社会主義運動)は、何らかの価値観(正義、公平等)に依拠していたり、そうでなくともしばしば生存権の主張という尊厳に関わるものであったので、単なる「カネよこせ」という要求とは異なったものだった。

第2節 資本主義的な承認の秩序と配分を巡る闘争

まずは三つの承認の圏域(愛、平等原理、業績原理)の説明がなされ、さらに業績については、資本主義社会では「何が業績として評価されるか」についての共通了解において「市民階級の男性の経済活動」が規範的に準拠点となっているということが指摘されている。つまり、業績に基づいた秩序といっても、規範から自由であるわけではなく先に相互了解があるのであって、しかもその了解は揺らぎないものではない。

「市民社会」ということでいえば、上記の三つの承認圏域はヘーゲル法哲学の「家族・市民社会・国家」にならったものだ、と書かれている(162頁)。しかしこれは「相互承認の圏域の分化」という発想において「同一の思想が再現」されているということで、あまり気にしなくてもいいかも。(それでも164頁では「平等原理」が市民社会に、業績原理が「国家」に対応していると書かれているが、そういうものなんだろうか。ヘーゲルの「市民社会(ブルジョア社会?)」は「利己的な個人の欲求が交差する社会」だと理解されていることもある。ハーバーマスの市民社会概念も私的経済圏を含むので、それに近いような。)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

いずれにしろホネットは、承認の圏域を、特定の時代に存在する制度的複合体(国家や家族)に対応させることは無理筋だ、ということを主張したいのである(165頁)。

どの承認原理でも一定のゆらぎ、あるいは「妥当性の過剰」(298頁)があって、それゆえに原理の解釈についての承認の闘いがある、というのがホネットの議論の特徴である。たとえば業績原理については「自然主義的な表象群」が意味の確定に一役買っている。「女性は本質的に◯◯だから、ケア労働は業績にカウントしない」といった解釈である。

また、ホネットにとっては福祉国家化は以下のように理解されている。

社会福祉国家的な構造変革プロセスにおいて資本主義的な承認秩序の内部で起きている変化とは、平等な法的取り扱いという原理がこれまでは自律的であった社会的価値評価の圏域への浸透のことだと理解するのが最もよいだろう。(169頁、訳文ママ)

これは、福祉国家化を「社会(市民社会)と国家の相互浸透」として記述した『公共性の構造転換』におけるハーバーマスの枠組みとはずいぶんと違う捉え方(というか私たちの実感にも、そして「社会権」概念にも近い捉え方)である。

170頁からは、ふたたびフレイザー批判。論点はさきほどすでに提示されている。平等原則や業績原理がもつ「道徳的な秩序形成の力」と、アイデンティティを巡る闘争あるいは「文化的な承認」とを分けて考えることのデメリットについて。これは社会的価値評価がジェンダーに影響されていることにもみてとれる。家事労働が労働として低く評価されたり、あるいは全く同じ職業でも女性が多数派を占めると途端に価値が低く見積もられたり、といったことが引き合いに出されている(174頁)。

また、法的平等の承認においても同様で、以下のように述べられている。

チャールズ・テイラーによれば、平等を巡る闘争は文化的な「差異」の承認に対する要求は無関係なまま、歴史のなかでいわば克服された局面にすぎない。しかしこうした見解は(中略)次のような理由から私には誤った発想であると思われる。それは、法的な承認を闘い取る場合も、平等原理を規範として、これまではまだまったく法的に顧慮されてこなかったそれぞれ特別な生活状態の「差異」に妥当性が与えられる以外に、これは行われないという理由である。(172頁)

第3節 承認と社会的正義

最初に論じられているのは、アイデンティティ・ポリティクスと承認原理との関係について。

アイデンティティ・ポリティクスはまず、個人主義的な要請を持つ。すなわち、承認を求めるある集団に属する個人の権利が不当に抑圧されている場合、それを撤廃することを要求する、ということ。したがってこの要請はすぐさま法的平等の枠組みに回収される(186頁)。

これに対してアイデンティティ・ポリティクスの「コミューン的性格」においては、「共通の集団生活の確保と改善」が目指される。コミューン的目標には、3つのものがある(187頁)。

  • 「集団の文化的再生産に否定的な影響を与えるかもしれない外的介入を防ぐ」という目標。教育を通じた言語の統一への抵抗、などでしょうか。これも「基本的権利」(言論、集会、宗教の自由)を使って闘われる。
  • 「文化的共同体の特定の措置をとり続けること(服装規定、戦いの取り決めなど)が支配的法則(ママ。法律?)からの例外として認められなければならない場合」。これには深刻なコンフリクトが生じうる。この場合、平等原理に立脚して文化的アイデンティティを守るためには、「そうした集団(注:マイノリティ集団)は、そのような資源ないし予防措置(注:たぶん表面的には法律に違反する慣習など)がなければ、将来、生活に密着した固有の生活形式および文化を維持することはできなくなる」ことを示すことが必要になる。
  • 「社会のメジャー文化から承認もしくは尊敬されるという目標」。文化の存続といった間接的な要求ではなく、直接的評価を求める運動(188頁)。

3つ目だが、それが不当な誹謗中傷を浴びない権利として捉えられた場合、やはり現行の法制度で対応する動きもありうる(ヘイト・スピーチ訴訟などはそれにあたるだろう)。それを乗り越えて、マイノリティの文化共同体がそれ自体の価値評価を求める場合には、さらに2つの方策がありうる(190頁)。ひとつは業績原理を拡張しつつ、当該文化共同体が社会の再生産に本質的に貢献していることを示すこと。しかしこれは困難なことがある(たとえば実質的に使用されていないマイノリティ言語を存続させることの社会的意義、などはこれか)。もうひとつは、「一切の確立されている価値関連から独立に」絶対的な価値を主張することであり、これには多少無理が伴う。

結局のところ、ホネットはアイデンティティ・ポリティクスが「愛・平等・業績」の三つの承認原理に「第四」の承認原理を付け加えるという見方には否定的であるようだ。「そうしたレトリック的定式を用いることで今日提起される圧倒的多数の要求が、支配的な承認秩序の規範的地平を超えることは結局のところない。」(193頁) したがって「ナンシー・フレイザーが用いるような「文化的」承認の概念は、文化的コンフリクトの戦線の解明よりもむしろその混乱に拍車をかける」(194頁)と手厳しい。

とりあえずここまで。

感想

ホネットの承認概念は「何が基準として通用するのか」(たとえば何が個人の業績としてカウントされ、何がされないのか)という認識枠組みを受け入れたり拒否したりすることについても適用されるために、再分配を含む広い問題を包括的に論じることができているようにみえる。しかしこのことを指すために承認という概念を用いるのは、よろしくないかたちの概念拡張(concept streching)の疑いをかけたくなる。こういう概念拡張をしていると、無用の批判を呼び込んでしまってあまりよいことがない(実際そうなっている)。

たとえば公平性と効率性のどちらを優先するか、ということは、ホネットが好む「侮辱」や「社会的な不快さ」という基底的な経験(フレイザーの表現だと「前政治的苦難経験」224頁)に基づかなくとも、議論されたりその都度決定されたりすることだ。

ついでに。

訳本について、凡ミス(タイポ)がちょこちょこあるのは愛嬌(?)として、たまに翻訳自体がヘンなことが...。特に気になったのは人名。明確な「間違い」ではないだろうけど、A.ハーシュマン(Hirschman)は「ヒルシュマン」になっている(注には「A. Hirschmann」なる文字列があるが、これはたぶんホネット自身のミスだろう)。また、R.イングルハート(Inglehart)が「インゲルハート」になってるし。綴りからしてもそう読む可能性はない...というか、一度でもググれば間違わないだろうに。訳本のタイトルにしても、Umverteilungの訳語は「配分」じゃなくて「分配」の方がよかったかも(まあ、これは分野によって違うか?)。文章がものすごく読みにくい、というかんじではありませんでしたが、監訳者の加藤先生は最終的にもう一度通読すべきでした。

研究会のお知らせ:「社会科学における因果性」(追記あり)

(23日に追記。)まだ全然席に余裕あるので、直前までメール待ってます!(懇親会は予約しちゃいましたが。)

(8日18:00に追加情報あり。)

下記の要領で研究会を開催しますので、お知らせいたします。

報告タイトル:社会科学における因果性―現代科学哲学の観点から―

報告者:清水雄也(一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程)

  • 日時:2015年7月25日(土)15:00〜17:30(予定)
  • 場所:キャンパスプラザ京都6階第1講習室(JR京都駅前徒歩5分)。入館後、エレベーターで6Fまでお越し下さい。降りて前方向かい側右端の部屋です。
  • 概要:「因果性とは何か」という問いをめぐる現代哲学上の諸議論について,基本用語の解説を交えつつ整理し,その概略的な見取図を提供します.その上で,介入説・多元論・文脈主義といった比較的新しい論点を取り上げ,それらの内容や問題点を可能な限り詳しく論じてみたいと思います.
  • 備考:参加は自由ですが、事前(21日までに)に下記メールアドレスまでお名前とご所属をご連絡ください。また、合わせて研究会後の懇親会の参加の意図についてお知らせください。(下記フライヤーも御覧ください。)

→参加確認用メールアドレス(担当:野村優):methodrits@gmail.com

研究会(「社会科学における因果性」)のお知らせ→causalityinsocialsciences.pdf 直

新刊案内『仕事と家族』

(5/16に追記)

5月25日発売予定の新刊の案内です。ここ最近いろんなところで書いてきたことに、いくつか新しい論考を加えています。

目次:
第一章 日本は今どこにいるか?
第二章 なぜ出生率は低下したのか?
第三章 女性の社会進出と「日本的な働き方」
第四章 お手本になる国はあるのか?
第五章 家族と格差のやっかいな関係
終章 社会的分断を超えて

Kindle等の電子書籍でも配信されます。

因果推論の社会学

前回の「関西計量社会学研究会」で、「計量社会学と因果推論」という主題でお話をさせていただいた。メモ代わりにそこで話したこと、その後に考えたことを書いておく。

まず、上記研究会で話したことは、短く言うと以下のとおり。

  • 最近は観察データの分析でも因果推論(措置効果モデル)の枠組みが使われることが多くなっている。
  • 因果推論の枠組みでは個体特性(性別、出生年、観察されない性向等)の「効果」は基本的に除去される対象だが、他方で計量社会学者はその個体特性自体に関心を持ってきた。

多少厳密な因果推論(措置効果モデル)の枠組みだと、同一個体に割付(アサインメント)できないものは原因にはなりえない、とされる。性別は(例外はあろうが)その典型例である。しかし主に社会学ではこういった個体の属性の「効果」をみるということがしばしばなされていた。これに対して、因果推論派の方からは「それは違うんじゃないか」というツッコミが入ったりした。

"I suggest that it is epistemological nonsense to talk about one trait of an individual causing or determining another trait of the individual." (Kempthorne 1978: p.15).

「個人のある特性が別の特性を引き起こすというのは認識論的にナンセンスだ」というのである。

さらに上記文章の続きで、

"I regret that I have to take the view that a very fine intellectual creation, path analysis, has led to a flood of work purporting to establish or suggest strongly that certain attributes cause other attributes."

と述べられているように、これは実は「性別・親の地位→本人学歴→本人達成地位」といった「分散分解系」の計量手法の代表であるパス解析における典型的な分析に対して投げかけられた言葉なのである。パス解析や回帰分析は、社会学のなかでは(ダンカン師以降)因果志向の分析の主要な武器であったので、こう言われてしまうと困ってしまう人が多いはずだ。なんと1978年にこういった異議が表明されているが、社会学者には届かなかったのだろう。

こうなると社会学者が伝統的に行ってきたような分析は因果推論ではなく、どちらかといえば確率論的な枠組みを伴った社会記述(社会の説明)である、ということになる。

ここで「分散分解系の手法は因果効果(causal effect)ではなくて因果メカニズムの解明(causal mechanism)を目的としているのでは」という整理をしたくもなるかもしれない。因果メカニズムの定義(や因果効果との区別)についてはいろいろ考え方がありうると思うが、一般的には因果メカニズムの解明とは特定の介入の効果の中身の説明(媒介)だと思うので、「因果メカニズムの語彙ならば個体特性が混ざっても因果を語れる」というわけではないだろう。

ところで、この対比を意識して、Xieはダンカン流の回帰分析を「人口学的アプローチ」と呼んだのであった。これはつまるところ「住み分け」のための整理で、一方が他方を否定するようなたぐいの話ではない。「因果推論枠組みが有効に適用できないような分析にそれを使うことは必要ないでしょう」といったプラクティカルなメッセージである。ここからは、個体特性の影響を分析したいときにパネル観察をすることにはあまり意味がない、といった示唆を得ることができるし、それはそのとおりだろう。

事実、主に社会学で独自に発展した計量分析のテクニック(ログリニアモデル、アソシエーションモデル、潜在クラス分析など)はどちらかといえば(カテゴリカル変数の処理に特化しつつ)社会の記述や潜在構造の解明を目指したものであった。

その上で、「住み分け」の話を超えたところでどういう話が可能か、ということで、以下のようなトピックをリストアップした。

  1. 個体特性による措置効果の違い
  2. 介入と社会記述
  3. その他。主に「個体」概念を巡って。

最初の論点は措置効果モデルの枠内の話で、そこでは多くの場合ATE(平均的措置効果)が求められるが、実際には個体特性ごとの効果を推定したほうが措置を効率化できるので、今後はそういった分析が多くなるのではないか、という(「個別化医療」的な)話をした。(この点について、フロアから、因果推論は個体特性を均質化して分析をしているのに、それを再導入するというのはいかなる手続きになるのか、といった質問をもらった。パネルデータを使わない場合にどういった分析になるのかは、確かにいまのところよく分からない。)

次。措置効果モデルでは、あくまで比較グループを均質化させて片方に介入をした場合の結果の差が求められる。措置から結果までの因果メカニズムの解明においては、少なくとも探索的に分散分解系のモデルが使えるだろう。さらに、実際の世界(観察される世界)では措置はnon-randomに割付される(たとえばセルフセレクション)。つまり、割付についての「広義」のメカニズムが存在する。こういったメカニズムの「記述」(私は「社会記述」と呼んでいるが)においてはやはり分散分解系の手法はかなり便利である。

「割付」の偏りにこそ問題をみる立場(社会学が典型)はあって良いと思うし、それ自体で因果推論と矛盾するアプローチではないので、両者(因果推論系と分散分解系)は補完的に用いることができるのでは、と述べた。たとえば割付効果(セレクション)を除去すると所得に対する「学歴」の効果がなくなりました!という因果推論がでてきたとする(学歴はたいてい措置できないので因果推論は可能か、という問題はさておき)。それは「学歴」に介入する(制度的に割付を変える)ことの是非を問うことにもなるし、それ自体効果がないにもかかわらず学歴による所得格差が生じてきたのはいかにしてか、という問いにもつながるのである。

以上はあまりインパクトのない話かもしれない。(「個体特性の因果効果は語れない!」というのは一部の人達にとっては衝撃だろうが。)

最後に、「まだこれから考えてみたいこと」として少しだけ話をした部分。

報告では主に「個体(unit, individual)」概念について触れた。実は、あらゆる因果推論枠組みは「個体」についての一定の理解のもとで成り立っている。

たとえば因果推論枠組みには(割付のignorabilityと並んで)SUTVAという有名な仮定がある。これはStable Unit Treatment Value Assumptionの略で、簡単にいえば措置グループと統制グループのあいだに相互干渉(interference)がないこと、そして(それと関連するが)個体ごとに措置のばらつき(unequal treatment)がないこと、である。

さきほど引用した文章にもあるように、「個体特性が個体特性を引き起こす(個体特性が原因となって個体特性を結果する)」と考えることは、この枠組みでは確かにナンセンスだ。なぜなら、個体特性は個体特性であるがゆえに「同一個体」に割付できないからだ。

しかし個体とはそもそも何なのか? とりあえず以下のようなことが思い浮かぶ。

  • 計量分析では、「日本」「京都府」「鈴木さん」などが個体の外延だ。「男性」「マニュアル職」「OECD加盟国」などは(個体特性だが)個体ではない。
  • 個体効果を固定効果として扱うことでその効果を除去するのが固定効果推定で、逆に固定効果を除去して個体の効果を推定するのが変量(混合)効果推定である。(なのでこの2つの分析はかなり違う世界に属している。)
  • 個体とは「持続的な特性を多数保持している観察単位」。持続的な特性によって生じる差が「個体差(heterogeneity)」。

個体差がない場合には、当然個体を個体として扱う必要もなくなる。したがって計量分析では、個体はある段階では経験的に存在が確認されるようなものである。たとえばパネルデータ分析では、個体ごとの誤差のまとまりが検出されず、かつ個体効果バイアスが検出されなければ、その個体のレベルはないものとして分析することが許容されている。

しかし、割付やサンプリングの最小単位としての個体は常に前提とされる位置にある。たとえばサンプルを「男性」に限定することと、そうして限定したサンプルから個体をサンプリングすること(あるいはサンプルのなかの個体を割付すること)は異なった手続きである。

計量研究をする研究者が、いかにして何かを個体として理解しているのかは、必ずしもきちんと解明されていないと思う。こういうのはまさに社会学の役目で、エスノメソドロジー的には、たとえば自殺をカウントする際には、自殺がいかにして記述・理解されているかの知識が前提となっている(が、これをきちんと記述するのはかなり大変なので、研究する余地がある)。さらに計量研究者は、介入実験だろうが調査観察だろうが、「個体」をピックアップしたうえで、「これは自殺、これは自殺じゃない」とカテゴライズしたり、ある個体群に措置をして別の個体群に措置しない、という判断をしている。カウントするためには、カウントする単位が確定していなくてはならない。

先ほど書いたとおり、個体が個体として計量分析で機能するためには、それは「持続的な特性を多数保持している観察単位」である必要がある。しかし、何が「持続的な特性を多数保持している観察単位」になりうるかは研究目的に左右されるし、もしかすると時代や地域によっても変わるかもしれない。(たとえば、世帯サンプリングはもしかするとこれからますます使えなくなっていくかもしれない。)

とりあえず以上。

以前の関連記事もどうぞ。)

今年度の目標(2015年度版)

あれから一年経ちました。まずは「2014年度の目標」を振り返って達成度合いを確認します。

  • 新書の出版:校了! 5月に出版予定! 中公新書から、タイトルは『仕事と家族』(仮)です。
  • 社会学テキストの出版:SY社の方(単著テキスト)、事態が進行せず。編集者の方も音沙汰なし...。UH閣の方(共著テキスト)は徐々に進んでいます(部分的に執筆しました)。
  • 計量社会学のテキストの編集・執筆:原稿はほぼすべて集まりました。あとは編集作業。世界思想社から『計量社会学入門:社会をデータでよむ』として、今秋に出版予定です。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:少しずつ...がんばります。
  • パネル調査・分析の入門書の出版:ナカニシヤ出版より『パネルデータの調査と分析・入門』(仮)で今年度中には出版できると思います。

というわけで、達成率7割程度、といったところです。

その他、予定になかった成果。

  • 査読論文:がんばって英文ジャーナルに2本投稿していました(どっちもセカンドですが..)。最近続けて結果通知がきました。一本はR&R(レビュアーがかなり好意的なのでちゃんと修正すればたぶん掲載)、一本は掲載決定! 春になって運気上昇してた?

次は、今年度の目標。まずは継続分。

  • 社会学テキストの出版:SY社(単著テキスト)→編集者の人にコンタクトしたほうがいいかな...。すでに9割がた終わってるのですが。
  • 計量社会学のテキストの編集:奮闘します。世界思想社の担当さんもたいへんそうなので、こちらでできることはしなければ...。
  • O. ウィリアムソンの翻訳の出版:がんばります。
  • パネル調査・分析の入門書の出版:自分の原稿は〆切ひと月前に提出済み(というイヤな子)なので、あとは共著者のみなさん次第です。

次は新規。

  • 本(共著)の企画が2つありますが、こちらはぼちぼち。
  • 査読論文:和文雑誌に単著かファーストで一本投稿したいと思います。

あとは研究の基礎体力を付けるために、本と論文をたくさん読み込みたいです。最近は書くことが多くて「読み」に厚みがなくなって、底が浅い思考しかできなくなっているような気がする。

第58回数理社会学会

第58回の数理社会学会日本女子体育大学)が無事おわりました。参加されたみなさま、おつかれさまでした。

今回はセミナー(「傾向スコアを用いた欠測データ解析・選択バイアスの調整とその周辺」)に星野崇宏先生をお呼びし、シンポジウム(「幸福研究のフロンティア」)では大澤真幸先生が登場するなど、通常のセッション以外にも盛りだくさんの学会でした。

星野先生には、マッチングや傾向スコアによる共変量調整などの基本を踏まえつつも、欠測データの処理、ヘックマンモデルとの関連、(これまであまり顧みられなかった、傾向スコア分析での)共変量選択の方針など、テキストブックの範囲を少し超えるようなトピックにも触れていただき、刺激的でした。

日本の社会調査データにおいて欠測の調整がどの程度の効果を持つのかについては、経験的にはそれほど大きくないのでは、と感じている一方で、おそらく社会調査に携わる社会学者ならば、もし調整前と調整後で顕著な変化があった場合にはむしろ何がそれをもたらしたのかに興味をもつだろうな、とも思いました。

大澤先生のお話は、近年顕著にみられるようになった幸福度の(年齢にそった)U字現象を説明する仮説についてでした。なかなかの切れ味だったように思います。幸福度の長期推移の分析や国際比較を行う際のひとつの理論枠組みになるのでしょうか。

2013年度から学会の研究担当理事を拝命しており、任期中の学会はこれで3回目になります。残るはあと1回(2015年3月の久留米大学での大会)です。

USJI Weekで報告

USJIという組織が主催するカンファレンスで報告します。場所はワシントンDCの学振オフィス、9/8の10:30からです。

部会は"Event 8: Women and Foreign Workers: New Stakeholders of Abenomics?"、私のタイトル(予定)は"When Equal Opportunity Law Fails in Japan: Women's Labor Participation as an Unintended Consequence"です。

もしよければどうぞいらしてください。

(当日の発表の様子。スライドが写っていないので、内容がわかりにくいですが..。)