社会学者の研究メモ

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「公共性」ノート:フレイザーの正義論

「公共性ノート」第三弾は、最初のノート(再分配か承認か)でホネットの攻撃対象になったフレイザーの論文から。

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

この本から、第一章「再配分から承認へ?」をまとめる。

サマリ

出発点となっているのは、20世紀末においてみられるとされる、政治を巡る変化である。

...集団としてのアイデンティティは政治的動員の主要なメディアとして階級の利害に取って代わろうとしている。文化的優位性が基本的な不公正=不正義(injustice)として、搾取に取って代わられ、不公正に対する治癒策あるいは政治的闘争の目標として、文化的承認が社会経済的な再配分に置き換えられつつある。(19頁)

経済的な不平等が決して減っているわけではないのに、承認の闘争が再分配政治を凌駕しているように見える(以下、引用部を除き、再配分を再分配と言い換える)。フレイザーは、なぜこのような事態が進行しているのかについてはここでは語らない。そのかわりに、承認のポリティクスをどのように発展させれば、それを再分配のポリティクスと矛盾しないで接合できるのか、という問いを立てる。つまり、ある種のアイデンティティ・ポリティクスは社会的不平等への戦いと親和性を持つが、別のアイデンティティ・ポリティクスはそうではない、と論じる。

フレイザーは、経済的不公正と文化的不公正は分かちがたく絡み合っていることは認める。ただし、

このような相互連動があることは踏まえながらも、私はあくまで経済的不公正と文化的不公正を分析的に区別し続けることにしたい。...経済的不公正に対する治癒策は、ある種の政治経済的な再構造化である。ここには所得の再配分、労働分業の再組織化、投資を民主主義的な意思決定プロセスに委ねること、あるいは他の基本的経済構造の変革などが含まれる。...ここでは総称して「再配分」と呼ぶことにする。他方、文化的不公正に対する治癒はある種の文化的または象徴的な変革である。これは例えば、蔑視されてきたアイデンティティや中傷されてきた集団の文化的産物の評価を高めたり、文化的多様性を承認し積極的に評価していくことでもある。...ここでは総称して「承認」と呼ぶことにする。(25頁)

ところで、このあたり、(少なくとも初版一刷の)訳本を見ている人には注意が必要だ。訳本の26頁、「この相互干渉に関しては...」の段落の翻訳は間違っていて、原文と意味が逆になっている。したがってこのままだと理解不可能である。この段落は正しくは以下のようになる。

この相互干渉に関しては懸念してしかるべきである。承認の主張は、パフォーマティブに創出するというのではないとしても、ある集団の一般的に認められている個別性に注目し、その価値を肯定するという形を取ることが多い。このように、承認の主張は集団の差異化を奨励する。☆(以下、訳し忘れ)再配分の主張は、これとは対照的に、集団の個別性をもたらしている経済的な配置を廃止することに注意を向ける。☆(一例としてはジェンダーによる労働分業体制を廃絶しようとするフェミニストの要求が挙げられる。)このように、☆再配分(訳文では「承認」になっている)☆の主張は集団の脱差異化を奨励する。

要するにこういうことだ。経済的不公正への糾弾と、文化的不公正への糾弾は、互いに助け合うこともある。たとえば経済的不公正への糾弾が「平等」という道徳的価値の尊重として行われる場合などである。ただし、この2つの不公正に対抗する運動は、対立することが多い。たとえば資本家に搾取されている労働者は、自分たちの労働者アイデンティティが蔑ろにされて、差別されていることを問題としているのではない。むしろ資本家と労働者の間の差異をなくすことを求める。他方で、セクシュアル・マイノリティの集団(たとえばゲイ)は、ゲイ・アイデンティティが差別されず、認められることを求める。

文化的不公正と経済的不公正の両面における是正が求められるケースもある。たとえばジェンダーである。女性は、男性との経済活動の機会の不公平分配を糾弾し、差異をなくすことを求める。他方で女性は、女性蔑視に直面したとき、差異を前提としつつ、女性としてのアイデンティティへの承認を求めることもある。

こうしたジェンダーの二価的特性がジレンマを引き起こすのである。女性が少なくとも二種類の分析上区別できる不公正を被っている限り、必然的に再分配と承認という二種類の分析上区別できる治癒策を必要とする。しかし、この二つの治癒策は反対方向を向いており、同時に二つを追求することは難しい。(32頁)

ジェンダーと同じジレンマは、人種問題においても生じる。フレイザーによれば、この場合も再分配と承認について、「同時に二つを追求することは難しい」(34頁)。なぜなら、

再分配の論理は、「人種」それ自体を廃止させようとするのに対して、承認の論理は集団の特性に価値を見出そうとするからである。(34頁)

フレイザーは、このジレンマを解決する処方箋がある、と主張する。言ってみれば、このジレンマはある意味で見かけ上のものだ、ということだ。

まず、通常の意味での再分配の要求は、その実階級格差を「肯定」した上での格差是正である。しかし階級格差そのものをなくす社会主義的な(「変革」的)治癒策もある。つまり、経済的不公正の是正において、そもそも階級格差をなくす変革的方向性と、格差を肯定した上で緩和する方向性の二つがある、ということだ。

同様に、通常の意味でのゲイの承認要求は、差異を肯定するものである。しかし、クイア・ポリティクスにみられるように、固定化された性的アイデンティティ脱構築することが目指されることもある。

こうしてフレイザーは、運動の方向性についての4つのカテゴリーを定義する。

  • リベラルな福祉国家:「経済的不公正」について、「肯定」の戦略をとる。具体的には、当初格差を温存し、表層的再分配によって肯定的に(保守的に)対応する。
  • 社会主義:「経済的不公正」について、「変革」の戦略をとる。具体的には、格差の深層に及ぶ改革を行う。
  • 多文化主義:「文化的不公正」について、「肯定」の戦略をとる。集団間の差異を肯定したうえで、共存を目指す。
  • 脱構築:「文化的不公正」について、「変革」の戦略をとる。差異を不安定にすることを目指す。(「ゲイにも権利を!」と叫ぶのではなく、異性愛と同性愛の境界線の揺らぎを強調する?)

41頁の図1.1をみると、フレイザー社会主義を「再分配」の「変革」バージョンとして理解し、また脱構築を「承認」の「変革バージョン」として理解しているようだが、多少違和感がある。上記のまとめのように、経済的不公正と文化的不公正という概念を用いてカテゴライズしたほうがしっくりくるように思う。つまり、再分配はリベラル福祉国家の主要戦略として、承認は多文化主義の主要戦略として位置づけたほうが良い。

これにしたがうと、すでに述べた「ジレンマ」というのは、経済的不公正への対応においては変革の戦略(差異の無効化)を、文化的不公正への対応においては肯定の戦略を用いていることからくる矛盾である。となれば、ジレンマを生じさせないのは、経済的不公正にも文化的不公正にも「肯定」の戦略で一貫させる方針か、あるいは逆に「変革」の戦略で一貫させる方針だ、ということになる。

この二つのパターンについて、フレイザーは「肯定」戦略には問題が多い、と主張する。男女の機会格差に表層的再配分、たとえばアファーマティブ・アクションなどを適用すると、バックラッシュを誘発する。ここに女性の差異を肯定する文化戦略を持ち込めば、さらに反発が強くなるかもしれない。

したがってフレイザーが推すのは「変革」の組み合わせである。ただ、「もし弱点があるとすれば、脱構築フェミニストの文化的ポリティクスも社会主義フェミニストの経済的ポリティクスも、大部分の女性の現在文化的に構築されている身近な関心やアイデンティティから隔たっている」(45頁)ということになる。

感想

フレイザーのここでの議論の特徴は、以下のようにまとめることができる。「再分配」から「承認」へのポリティクスの変化、さらにはその対立という状況があった。しかしこれは実質的的には変革(社会主義)戦略が衰退して、肯定(承認)戦略に転換したことによって生じたものなので、この問題を回避するには、経済的不公正に対する変革(社会主義戦略)を文化的不公正についても適用すべきだ。

図式的にはキレイだし、一定の説得力はあるかもしれない。しかしまだ分析的に粗いのではないか、という感想を持った。個人的には、やはりホネットの議論に軍配を上げたくなる。つまり、労働運動も、セクシュアル・マイノリティの肯定戦略も、いずれも「平等の圏域における承認」を求めるものだ、という見方だ。

ただ、経済的平等を求める運動と、文化的価値観への承認を求める現代的運動のあいだにそれでも残るようにみえる分断については、やはり--フレイザーとともに--そこに何かしら説明すべき問いがある、といいたくもなる。しかしそれは、フレイザーの主張とは違って、集団のアイデンティティを「肯定するか変革するか」という問題ではないと思う。

そもそも肯定と変革という概念対についても、周到に練り上げられたものであるようにはみえない。なぜリベラル福祉国家が「肯定」戦略で、社会主義が「変革」なのかも、よくよく考えるとわからない。リベラル福祉国家においても教育への公的投資を充実させれば機会平等社会に近づくだろう。資本家と労働者という差を固定的に考えるのでなければ、リベラル福祉国家より社会主義を優位に置く理由がまだよく理解できない。

「再分配から承認へ」というポリティクスの変化に通底するのは、むしろリベラリズムの限界の問題なのではないか、と私は考えている。リベラリズムの政治哲学においてはよく知られた問題だが、特定のアイデンティティ・ポリティクスは、他の価値観との平和な共存を望んでいるとは限らない。

「政治的リベラリズム」を論じるロールズも認識していたように、たとえば一部の宗教原理主義にみられるが、特定の価値観を信奉する人や集団は、必ずしも自由な領域での「平等」に基づいた権利が享受できればそれでヨシ、と考えているわけではない。素朴なリベラリズムの思惑を踏み越えて、ある人の善の構想は容易に他の人の生き方に干渉する。

たとえば中絶廃止論者は、自らの中絶を禁止するのみならず、社会に属する全ての人々の中絶の権利を認めるべきではない、と考えている。リベラリズム側が「中絶するかどうかは私的領域の自由な決定の範囲だ」と主張するのに対して、保守派側は「公的領域で規制すべき事柄だ」と主張するわけである。一般に保守派の方が、私的領域の自由を狭く考えている(善の構想がより「包括的」である)。ロールズがいうように、「損失のない社会的世界は存在しない。つまり、一定の根本的な諸価値を特別の仕方で実現する幾つかの生き方を排除してしまうことのないような、いかなる社会的世界も存在しないのである」(『公正としての正義 再説』訳272頁)。ロールズはもちろんこの排除をそのまま不正義とはしなかったが、出発点の認識としてはこの問題を共有している。

公正としての正義 再説

公正としての正義 再説

政治哲学については素人なのであまりフォローできていないが、現代社会の観察としては、以下のように記述できるのではないか。経済的平等はひとつの価値観にすぎないが(たとえば平等の単位は個人なのか家族なのか、平等の範囲は国内なのか人類全体なのか、といった点においても一定の価値判断が必然的に混ざりこむ)、先進資本主義社会において広く受容されやすい価値観であったために、それに基づいたリベラリズム(公的領域における経済的公平と私的領域における思想・価値の自由)がもっともらしく聞こえ、擬制ではあっても成立する時代・地域があった(第二次世界大戦後から1970年代くらいまでの経済先進国はそうだろう)。しかし、リベラリズム的制度設計の根幹をなす公と私を分ける境界設定において、それが一定の価値観に則ったものにすぎないことが次第に明らかになり、公私の境界、つまりどこまでが公共的に決定され、どこからが自由なのかの境界が揺らぎつつあるのだ。