社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

「公共性」ノート:『公共性の構造転換』第五章

第二弾はお馴染み、第二世代フランクフルターの旗手、ハーバーマスの『公共性の構造転換』。

これはレビューがたくさん出ているので「いまさら」な古典ですが、第5章「公共性の社会的構造変化」を中心に、気になったところを少しだけピックアップ。

第十六節 公共圏と私的領域との交錯傾向

ハーバーマスの公共性の構造転換の一番のポイントは、公共圏の変質というよりは、その背景にある「国家と社会の分離とその後の交錯(相互浸透)」であると思う。国家(公権力)と社会(ブルジョア社会)の分離を社会経済的前提として、その間に成り立つのが市民的公共圏(討議空間)であるので、国家と社会の分離がなくなれば市民的公共圏もその基盤を掘り崩されてしまう。この節ではその「国家と社会の交錯」が時代的にどの部分を指しているのかが述べられている。

この私生活圏(民間領域)は、重商主義的統制から解放されるにつれて、はじめて私的自律の圏として展開していく。やがてこの傾向は逆転して、十九世紀の最後の四半期以来、国家の干渉政策がはっきりと増大していくが、それだけではまだ公圏が私的領域と交錯することにならない。しばしば新重商主義と呼ばれるこの干渉政策は、国家と社会の分離を維持したままで、それを跨いで民間人の自律を制限しうるが、彼らの交渉の私的性格そのものは侵害されずにいることができるであろう。(197-8頁)

つまり、公権力側からの私的領域への介入(前者による後者の重商主義的な利用)だけでは「分離」がなくなったことにはならない。

こうした事態(注:資本集中)の推移する中で、市民社会は権力の面で中立化された圏であるという外観をあとかたもなく放棄しなくてはならなかった。この自由主義モデルは、実は小規模商品経済のモデルであって、個々の商品所有者たちの横の交換関係のみを念頭において作られていた。自由競争と独立価格が守られるならば、何びとをも他人を自由に支配できるほどの権力を取得し得ないはずだと解かれていたのである。...集中と恐慌の過程は、社会の敵対的構造から等価交換のヴェールを剥ぎ取る。社会が単なる今強制体系であることがみえすいてくるにつれて、強力な国家を求める声が切実になる。(200頁)

微妙に雑な経済史的記述だが、擬制的にせよ「経済的に自立した市民(資本家)による自由な討議空間」の成立と衰退を軸に歴史記述されているわけなので、一応一貫していると思う。

一方では、商品交易という私的生活圏において大勢力が集結し、他方では、公共性が国家機関として確立されて万人の参加が制度的に約束されたために、経済的に弱い立場にある人々のうちに、市場で優位である者に対して政治的手段で対抗しようとする傾向がつよまった。(201頁)

要するに労働者階級による政府に対する再分配的介入の要請だが、市場ではなく「国家自身が製造と分配の面で活動」することが多くなることは、政府による「国民経済総計算」に基づいた経済的介入の本格化と、福祉国家化に伴う政府によるサービス給付の増加などにみてとれる、とされている(203頁)。

ちなみに、このあたりの歴史記述にはケインズ、ヒックス、マクロ経済学といった言葉は登場しない。なんだか変なところでバーリとミーンズが参照されているし(注11。あえて参照するなら、時代は違うがコーポレート・ガバナンスとかだろうか)、やはりH氏の経済史の見方は多少変則的なのであろう。

さらに、社会サービスのくだりは、H氏の記述が社会学や社会政策学の標準理論とニュアンスを異にしているところでもある。この標準理論とはすなわち、「(雇用労働化によって)経済的に自立した個人が家族から、やがて経済的に自立した女性が男性から独立するプロセスに対応して、(家族や男性ではなく)政府が生活保障を担うようになる」という認識である。一方で「政府の社会支出はいかにして増えるのか」「福祉国家はいかにして成立するのか」という問題設定があり、他方では同じプロセスが「個人の政府への依存(による公共圏の崩壊)」として理解されているわけだ。

(このあと展開される公法と私法の交錯の議論は省略。)

第十七節 社会圏と親密圏の両極分解

この節は、ブルジョア市民社会の私的領域が(今度は)分離していくプロセスの記述。職場が公的な空間になっていくのと同時に、小家族的親密性の領域は収縮していく、と書かれている。つまり、ブルジョア社会の私的経済領域が国家と相互浸透をするのと同時に、そこから家族が排除されていくプロセスである。

工業的大経営の発展は直接に、官僚的経営の発展は間接に、資本の集中度に依存している。両者のいずれにおいても、私的職業労働の類型とは質的にことなる社会的労働の諸形態が発展する。形式的にみれば企業は私的領域に属し、官庁は公的領域に属するわけであるが、労働社会学的にみれば、この形式的分類には明瞭な境界がなくなる。...もちろんこの発展は、生産手段の所有者の自律を形式的に維持しながら、実質的にはその私的性格を奪うという過程にも基づいている。(208頁)

これは「職場の準公共領域」化(210頁)とも言われているが、社会学ではお馴染みの官僚制的組織が行き渡る過程に対応している変化であろう。H氏は、(少なくともここでは)目的合理性というよりは資本集中と国家行政の肥大化に官僚制的システムの一般化の要因をみているようだ。

ここでひとつツッコミをいれたくなる。

初期資本主義段階(H氏の言葉では「小規模商品経済のモデル」)における、自立した個人資本の対等な位置での取引ではなく、組織が形成されるということは、経済学的には別様に記述できる。というより、経済学的には「どういった場合に市場取引ではなく組織が形成されるのか」が説明できる(R.コースとその後の新制度派の議論)。

市場と企業組織

市場と企業組織

このモデルでは、資本集中は外生ではなく内生的にモデル化される。「組織を形成することが効率性の点で非合理的である場合も理論的に想定できるかどうか」はかなり大事だと思う。本書の議論にとって本質的なポイントではないが、ここは(残念ながら)社会学全般がウェーバーに引きずられてちゃんと議論していない点なので、一応。

次は家族。

職業圏が自立化するのと同じ度合いで、家庭は内へ引きこもっていく。自由主義時代以来の家庭の構造変化の特色は、消費機能が増して生産機能が失われたという点にあるよりも、むしろ家庭が社会的労働一般の機能体系から次第に脱落していったという点にある。(210頁)

こういった変化の帰結としてH氏が注目するのは、次の2点にまとめられる。

  • かつては「市民社会の交換関係はブルジョア家族の人間関係の中へ深く作用を及ぼしていた」のに、それがなくなった。こうして「公共性の社交に向かって開かれたその開放性」(213頁)あるいは「公衆への関心を持つ私人」(215頁)の経済的基盤が失われる。
  • 「危急時の自給や老年期の自活の可能性を家庭から奪う」。要するに福祉国家化である。

こういった論点は、「人格的内面化」の機能が家族から家族外に移されるという議論にもつながっている。H氏によればこれは「家族的親密性の空洞化」である(213頁)。

「親密な領域への撤退」ではなく、親密性が空洞化し、「擬制」的なものになっていく、という理解である。第二章の「文芸的公共圏」の議論でもそうだが、H氏にとっての「親密性」は「自立して公共圏に関わっていく市民」のエートスを形成する保護繭のようなものである。だからこそ「小家族的親密性」が公共圏の基礎になっていたのだが、いまや個人は直接に公的な影響力にさらされるようになった。

第十八節 文化を論議する公衆から文化を消費する公衆へ

市民的公共圏が機能していたときは、ブルジョア=財産所有者は「生活の必要に迫られた生産と消費の循環」(216頁)から自由だったのだが、この条件は失われた。

私人の自律は今では私有財産の処分権の中に本源的に基礎をもつものではなくなって、私生活の公共的身分保障から派生した自律となってしまったので、「人間」が(かつてのようにブルジョワとしてではなく)市民(citoyen)として、政治的に機能する公共性を媒介にして彼らの私的生活の条件を自分の手中に掌握するときにのみ、実現されるであろう。しかしそれは当面のところ期待できない。(217頁)

こうなると、保護された私的空間でじっくりと読書して、知を習得してから公共圏で議論をするということがなくなる。「家庭がその文学的連関を失う」(219頁)、「習得された内容についての公的コミュニケーションも脱落する」(同)といった記述がある。同時に、かつては(商業化によって「庇護者や貴族的通人の専用から解放」(221頁)されて有産市民に行き渡ることになった)文芸作品について「討議」することは自由であったのに、いまでは討議そのものが商品化されてしまう。

今日では、対話そのものでさえ管理されている。縁談上の専門的対話、公開討論、ラウンド・テーブル・ショーなど、私人たちの論議はラジオやテレビのスター番組となり、入場券発行の対象になり、だれでも発言に「参加できる」場合でさえ、商品形態をとってくる。討論は「ビジネス」に引き入れられて、形骸化する。(220頁)

繰り返し述べられているが、文化に対して市場が果たした役割は二義的である。

ひとつの場合には、市場は公衆にまず文化財への通路を開き、やがて製品の価格引下げにともなって、ますます広い公衆にその参加を経済的に容易にする。もうひとつの場合には、市場は文化財の内容を自分の需要に順応させ、こうして広汎な層に心理的にも参加を容易にする。(222頁)

こういった見方はむしろ一般的であろうが、H氏の場合には、文化の商品としての流通とそれについての教養を伴った討議が首尾良く切り離されていた(極めて特殊な)時代・地域の経済社会的条件を記述しようとしたのだろう。

似たような議論、すなわち「入場条件」を切り下げて開かれた空間になると、内容的な低廉化が生じる、という議論は、インターネットのコミュニケーション空間についても言われているような気がする。かつては学識と倫理感のある人たち(学者やエンジニア)のみがネット空間での討議に参加していたのが、いまや...といった見方である。

他方で、H氏は私的(親密性の)空間と公共圏の相互浸透のような事態にも注目している。

親密圏が文芸的公共性に対してもっていた本来の関係は逆転する。公共性へ関心を抱いていた内面性は、傾向的には、親密性へ関心をもつ物象化へ席をゆずっていく。私的生活の問題性は、ある程度まで公共性によって呑み込まれ、公論的権威の監督下で解体されないまでも普及される。他面において私生活の意識はまさにこういう公共化によって高まる。これによって、マス・メディアが作った圏が二次的な親密性の相を帯びてきたからである。(228頁)

(ちゃんと理解できていないがおそらく)かつて市民は、自立した親密圏(ブルジョア小家族)の内部で自分の内面について充分な思索・反省をめぐらした上で、つまり思索の訓練を受けた上で文芸的公共圏(サロンや読書会)に参加していた。経済的に自立した市民が政治的討論を行うのとパラレルに、心理的に自立した市民が文芸作品について討議をしていた、という話なのだろう。

ところがこの心と物質の繭の殻は破られてしまう。市民は、メディアを通じて供給される薄っぺらなドラマやメンタルサポートのメッセージを受動的に消費するだけの存在になってしまう。このあと229頁あたりでは、こういった文化消費を率先して行っていたのは実は成金(「その社会的地位がまだ文化的正統性の証明を欠いているような上昇中の集団」229頁)でしたよ、といった話になる。

このあたりは権威主義についての先行するフランクフルト学派研究者とある程度重なりあう認識なのかもしれない。とはいえ、公的領域と私的領域の分離とその後の相互浸透、という(この本の核となる)図式はH氏のオリジナルであろう。

第十九節 基本図式の消滅 市民的公共性の崩壊の発展経路

この節は「まとめ」。しかも最重要箇所。この節だけ読んで理解できれば、あとのところは読まなくても趣旨がわかっている、ということだと思う。特に232頁の最初の段落はまとめ中のまとめになっている。

市民的公共性のモデルは公的領域と私的領域とのきびしい分離を基準にしており、そのさい、公衆として集合した私人たちの公共性は、国家を社会の要請と媒介しながらも、それ自身は私的(民間)領域に属していた。しかし公的領域と私的領域の交錯が加わるにつれて、このモデルはもう適用されなくなる。すなわちそこには、社会学的にも法律学的にも公私のカテゴリーには包摂しきれない特殊な、再政治化された領域とが、政治的に議論する私人たちによる媒介なしに浸透し合う。(232頁)

このあとも、文芸的公共性と政治的公共性との関係について述べられていたりして、重要箇所が多い。第5章第十九節はこの本の核となる部分だといえるだろう。

とりあえずここまで。