社会学者の研究メモ

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量的研究と質的研究の連携に向けて

足の調子が少し悪くてひきこもってます...。しかし手は動く。

筒井が所属する立命館大学人文科学研究所からの助成で、「人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性」研究会をスタートさせました。さしあたり3年間継続します。研究助成を申請する際に固定メンバーを10人ほど指定していますが、研究会はオープンにする予定ですので、興味のある方はぜひご参加ください。(9月19日に第1回研究会を開催予定。)

特に社会学では、質的研究や質的データを利用したモノグラフ的研究と、計量データを活用した量的研究のあいだでは、ほとんど協力関係もなく、また互いに妙な誤解を抱きあっている部分もありそうです。本研究会では、あまり前提を置かずに互いの研究実践の特性に関する理解を深めることを通じて、合理的な「連携」のあり方を模索することが目指されます。

とはいえ議論の「とっかかり」は必要になると考えています。あくまで私の個人的な意見ですが、以下のようなアイディアを持っています。

量的研究の一部が「安易な概念設定」に基づいたものであるということを、量的研究のデメリットとして考えるのは、あまり賢い方針ではない。

それよりも、そのデメリットが「計量化する」ということの特性と意味的に深くつながっているかどうかを分析していくほうがよさそうです。

社会科学分野の計量分析では、強い意味での一般(法則)化の志向は存在しないようにみえる。

計量分析の論文の趣旨が「一般法則の発見」であるという考え方があるとすれば(あるような気がするのだけど)、私自身はかなり強い違和感があります。

少なくとも「標本サイズを大きくすることで知見の"一般性"(妥当性、ではない)を担保しようとしている」と言われると、ほとんどの量的研究者は「?」となるはずです。「標本サイズを増やすこと」や「一般化」といった概念の意味について、計量分析の理論と実際に照らしてもう少し詳しく分析することの意義はありそう。(たとえば統計的手法による検証はもちろん「帰納」の一種だが、「これまでみた100羽の白鳥が白かったから101羽目の白鳥も白いはずだ」のような推論とはかなり違ったことをしている。)

量的研究者の多くは、数理モデルや概念分析(規範の分析)ではない「質的」研究が、量的に検証することが「原理的に」不可能な命題を扱っているから質的研究をしているのだとは考えていない。

これは重要な議題になると思います。非常に多くの質的研究が、量的にも検証できるリサーチ・クエスチョンのもとでなされているからです。

実際に質的研究を行う一部の研究者は、コストや対象の特性のせいで量的に検証することが難しいから(次善の策として)質的に調査していると言っています。同じようにグラウンデッド・セオリーの一部論者は、「質的分析は量的分析の準備作業」と位置づけています。

ワードマップ グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで

ワードマップ グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで

これは量的研究者が考える質的研究の位置づけに近いような気がします。つまり、妥当な変数設定をするために事前に質的にデータを集めている、という位置づけです。

とはいえ、「検証する」ということをもう少しちゃんと分析することで、この考え方は相対化されるかもしれないです。

たとえ(誘導形の)回帰分析といった古典的な方法計量分析の手法においても、テキストによってはミスリーディングな解説がなされていることがある。

とくに、実験データにしか使えない方法を調査データにも使えるかのように書くのはどうかと思います。このへんは非計量の研究会参加者は留意しておく必要があるかと。

「質的研究/調査」はきわめて多様であり、あえて言えば「量的調査/分析」の残余カテゴリーを指す言葉になっているが、何かしら共通する志向性があるのだろうか

もちろんそれをいうなら、量的分析も多様といえば多様(特に多変量解析系の方法は)。

私自身の現時点での問いは、量的に検証可能な問題に取り組んでいるのではない質的研究には何があるか、というものです。(振る舞いの規則・規範を記述するタイプの研究はこれに入ると思います。EMや、社会学ではないが分析哲学など。)

これらはもちろん私の考えで、いろいろ予断を含んでいるので、研究会を通じて修正していくことができれば、と思います。

■追記

心理学その他、当然「質的研究」と「量的研究」が大きな分断もなく連携している分野はある。ではなぜ社会学だと連携がスムーズではないと感じられるのか。

リサーチクエスチョン(問い)が明確で特定化されている分野(医療などはそうでしょう)であれば、それだけ「連携」の苦労は小さいだろうと想像できます。どうあっても問いが明確にならない(問い自体の妥当性が常に問われる)という社会学の分野的特徴も関係しているような気がします。