社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

福祉切り詰めの政治

政治学よりの話ですが、関連分野なので備忘録的に簡単なサマリ。

Paul Pierson, 1996, "The New Politics of the Welfare State". World Politics, 45: 143-179.

一言でいえば、「福祉の切り詰め(welfare retrenchment)がいまいち進まないのは、政治家が福祉受益者の票を気にしてるからだ」という内容でした。

もうちょっと詳しくまとめると...

リサーチクエスチョンは次の通り。「旧来の説明枠組み(経済学、権力資源論)が予測するほどは、現状の福祉国家での社会支出は切り詰められていない。どうしてか。」

答えは次の通り。

  • まず事実把握として、「グローバリゼーションによって一国政府の社会政策の効果が縛られている」「新興国のせいで賃金下降圧力が強まっていて、企業内福祉の切り詰め圧力がかかる」というストーリーは経験的証拠を得られていない。だからこのパズルの説明は政治学的になされるべき。
  • 政治学的説明としては権力資源論(Esping-Andersenが代表的)があるが、この立場は左翼政党と労組の勢力を福祉供給の規定要因として重視する。が、それだと近年のこれらの勢力の弱まりは即福祉切り詰めを帰結したはずだ。実際にはこういった関係は経験的には見いだせなかった。だから別の説明が必要になる。

というわけで、「別の説明」としてピアソンが用意するのが「new politics」論なのですが、内容は以下の通り。

  • 福祉の拡充をすることと、福祉の切り詰めをすることは政治学的に異なった説明を要する。そもそも後者は難しい(社会的ジレンマ、利得より損失を大きく見積もるバイアスなどのせいで)。
  • 発展した福祉国家では福祉の受益者(年金、失業給付、医療保険その他の福祉給付の受給者、公務員)の割合が大きくなってきており、彼らの勢力が無視できない。このため、たとえ社民政党や労組の力が小さくなっても、直接福祉の切り詰めに繋がらない。

このあたりに関連する文章を、ちょっと引用しておきます。

Interest groups linked to particular social policies are now prominent political actors. ... Groups of program beneficiaries did not build the welfare state, but the welfare state contributed mightily to the development of these groups.
... The diminished relevance of power resource arguments reflects the fact that welfare states are now mature and that retrenchment is not simply the mirror image of welfare state expansion. (p. 151)

ついでに、新制度論(new institutionalism)への言及もありました。

  • 新制度論(スコッチポルなど)は「なぜアメリカでは福祉の社会化が進まなかったか」という問いをたて、行政・政治制度の仕組みが原因だと答える。行政が集権化されていなかったり、連邦制のために中央政府が弱かったり、(カナダのケベックのように)固定したマイノリティがいたりすると福祉政策は進みにくい。

これに対するピアソンのコメント。やはり「拡大局面と切り詰め局面は違う」という見方です。

  • 国の行政能力が高いとその国の福祉の拡大を促進するかもしれないが、切り詰めについては関係がない。(行政能力が高かろうと低かろうと切り詰めは可能なので、切り詰め論には使えない。)
  • 政治が集権化されている方が(途中の邪魔が入らないので)切り詰めしやすいだろうという見方もあるが、福祉切り詰め作は人気がないのでそうはいかない。集権化されているということは決定を促しやすいという面では福祉切り詰めに促進的に働くが、集権化は同時に意思決定過程が公衆に見えやすいということでもあり、その点では切り詰め策を阻害しやすい。

残る部分でピアソンは簡単なデータと事例記述の組み合わせによって、以上の見方を実証しています。

(論文内容とあまり関係のない)感想

ピアソンの"new politics"論には、同じ政治科学的立場からの反論もあります*1社会学者の立場から興味深かった点は、やはり福祉切り詰めそのものの評価との関連です。この分野での論文としては当然なのでしょうが、論じられているのは「福祉切り詰めがいかにして政治プロセスにおいて抑制・阻止されてきたか」であって、福祉切り詰めが全体的・長期的に福祉につながるのかどうかという問いは丁寧に「括弧入れ」されます*2。もし括弧入れしなかったら社会保障の経済学や社会学と同じになるわけで、このアプローチの仕方は筋が通っていると思いました。

この論じ方はメディア・リテラシーとちょっと似ているところがあって、メディア・リテラシーではメディアが「事実」をいかにしてねじ曲げているかのプロセスを記述するのですが、その際メディアが伝えている内容が科学的に妥当なのかどうかが別途検証されることはありません。

ただ、この論文でも少し触れられていますし、社会学の方法論の分野でもかなり周到に論じられているように、「政治プロセスでの決定のされ方/メディアでのリプリゼンテーション/相互行為での見せ方」と「それ以外の客観的な事実」というくくり方には一定の留保も必要にはなります。...といった話はややこしいのでポイっと置いておくとして。事実を解明する科学とプロセスを解明する科学の二つが何らかのトピックについてさしあたり分けられたとして、この二者にはプラクティカルには次のような関係もありそうです。

  • 科学者の間で事実レベルで意見が収束しており、他方政治プロセスがそれと反対方向に動いているような場合、政治プロセスを解明することには理解が得られやすい。
  • 反対に科学者の間で意見が分かれているようなトピックについては、政治プロセスを記述する営みには理解が得られにくい。

たとえば、もし「切り詰めは長期的にプラス効果をもつに決まっている」という見方が学問レベルで広く共有されている状況があるなら、政治プロセスの段階で「なぜいい方向への改革が阻害されるのか」を解明すれば、そういった分析が事態の改善に貢献するという理解が得られやすいと思います。他方で「AがいいのかBがいいのかについて学者や世の中で意見が分かれている」状況があるとして、「それはとりあえず括弧入れしてプロセスを記述します」という立場を表明すると、少々マニアックな営みだと思われやすいかもしれません。「あなたも科学者なら白黒つける論争に参加したら?」とか言われそうです。事実判断を慎重に括弧入れして丁寧にプロセスを説明したあと、「で、君はどっちだと思うの?」と聞かれてどっと疲れが出る、みたいな。

私自身は実証系の社会学者なので、「いろいろ言われているけど実際どうなんだ」という問題設定をかなりナイーブなレベルで引き受けていますが、他方でどういった状況でもプロセスの解明の重要さは強調しなければならないと思います。

まあ、実際には政治は制度(現実)を規定するのだし、事実レベルでも単なるゼロサムであるというケースもありそうなので、先の二者がはっきり分けられるようなケースはそれほど多くはないのでしょうが。

いずれにしろもうちょっと勉強してみようという気になりました。

ポリティクス・イン・タイム―歴史・制度・社会分析 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 5)

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■追記(2010.8.26)
ウェブ上にまとめの研究ノートがアップロードされていました。http://bit.ly/aKRnpN

*1:Korpi, W., 2003, “Welfare-State Regress in Western Europe: Politics, Institutions, Globalization, and Europeanization,” Annual Review of Sociology, 29: 589–609.および Korpi, W. & J. Palme, 2003, “New Politics and Class Politics in the Context of Austerity and Global- ization: Welfare State Regress in 18 Countries, 1975-95,” American Political Science Review, 97: 425–46.

*2:むろん切り詰めが思ったほど進んでいないという事実は示されているのですが。