社会学者の研究メモ

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経済学と社会学

前回のエントリは自分で読んでも不親切なような気がしますので、ちょっと補足しておきます。まず、経済学のモデルが規範的かどうか(効率性という価値基準からの政策決定のモデルをもっぱら意図しているか)ですが、もちろん違うという意見もあるかと思います。最近話題になったレヴィット(S.Levitt)の"Freakonomics"なんか、最初から「経済学にはこんな説明力があるんだよ」ということを示そうとしています。(中絶と犯罪率の関係なんて、すごく社会学的な研究関心です。)新制度派の一人で先にノーベル経済学賞をとっているノースD.Northも、規範的モデルではなく歴史的説明を重んじています。とはいいつつも、他の学問に比べれば格段に規範的だし、「その研究にはどういう政策的含意があるの?」と聞かれる頻度も他の学問よりは多いでしょう。

Freakonomics: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything

Freakonomics: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything

ラノベッターのウィリアムソン批判のおかしなところは、効率性という価値関心において意味を持つモデルに対して、秩序問題という社会学的関心からの問いかけを行い、規範的モデルの「説明不足」を指摘する、という論立てをしているところです。その矛盾が、社会関係と効率性の関係を理論化できていないところにつながっています。「社会関係は効くんだよ」とは言いますが、その効果の存在の指摘にとどまり、それがたとえば競争(効率性)圧力からどのように制度化される可能性があるのか、という新制度派本来の関心とは離れたままです。これが結果的に、社会関係の効果の理論化という点でも説明力を損なわせてしまうことにつながります。というのは、特定の社会関係の結果、つまりうそれが何をもたらしているのか、効率性か非効率性か、それとも別の効果(たとえば不公平性)か、を説明できないからです。

概して社会的ネットワーク理論は、価値関心の面であいまいなところが目立ちます。都市社会学(ウェルマン(B.Wellman)のコミュニティ問題、フィッシャー(C.Fischer)の都市コミュニティの分析)の影響もあって、ネットワークはそれ自体がポジティブな価値としてみられてきたところがあります。そのせいか、なぜか弱い紐帯による個人の競争的優位が否定的に考えられることがほとんどないのです。一般的にはコネによる就職や出世はあまりプラスには考えられないでしょう。バート(R.Burt)の構造的隙間による優位性なんて、ほぼレント・シーキングのことです。でもなぜかそういう批判的文脈では語られない傾向があります。(バート自身も、構造的隙間は不完全市場において効果を持つと述べています。)

Structural Holes: The Social Structure of Competition

Structural Holes: The Social Structure of Competition

すべての社会学的研究が経済学のように明確な価値関心を持っている必要がある、というわけではないですが、ある程度自覚的になった方がいいんじゃないか、とも思います。特に社会学の特徴は、様々な価値関心に基づいた研究が「モザイク状」に寄せ集まっているところです。合理的行動ではなく歴史のある制度を出発点に考えるのですから、モザイクになるのは当たり前といえば当たり前です。が、ウェーバーじゃないですが価値の優先順位を考える必要がある場合もあるだろうし、研究においても根底にある価値関心を明確化する作業は必要でしょう。

たとえば都市社会学の根底にある社会関係の変化と、階層研究の根底ある公平性の価値観は、(コミュニタリアニズムリベラリズムが対立するように)矛盾することもあるでしょう。実際、階層研究者は(ブルデューのように)コミュニティや社会関係資本をネガティブにとらえることが多いのです。