社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

グラノベッターのウィリアムソン批判

Granovetter, Mark. 1985. Economic Action and Social Structure: The Problem of Embeddedness. AJS 91(3): 481-510.

09年のノーベル経済学賞を受賞したO.ウィリアムソンの組織論(市場/ヒエラルキーモデル)に対するM.グラノベッターの批判が展開された論文。ウィリアムソンはR.コース以来の取引費用論を受けついだ、新制度派の代表的経済学者です。グラノベッターは社会学者なら知らない人はいないでしょうが、有名な「弱い紐帯」論に代表される、いわゆる構造分析(structural analysis)の提唱者の一人です。(他にはバート、マースデン、ウェルマンがいる。)同論文は『転職』に日本語訳もあります。ウィリアムソンのノーベル賞受賞を記念して(?)、実は珍しい社会学者からの経済学モデル批判のこの論文をまとめておきます。

転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)

転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)

サマリ

しばしば指摘されているように、いわゆるホッブズ問題(万人の万人に対する戦争)に対するT.パーソンズの解決(規範の内面化)は「過剰社会化(oversocialized)」された人間像として批判されてきた。他方でグラノベッターは、ミクロ経済学が出発点とする原子的個人もまた、過小社会化された人間像として批判する。グラノベッターによれば、両者は社会関係を視野に入れていないという点で同じである。利益最大化を目指す個人も、内面化された規範に従って行動する個人も、どちらも社会関係に影響を受けない孤立した存在としてモデルがたてられる。しかし人間は歴史的・構造的に社会関係に埋め込まれているはずで、これを考慮しないのはおかしい、と指摘される。また、そもそも「自己利益の追求」というのは(ホッブズ状態が許容する暴力ありの状態に比べて)極めて礼儀正しい行動で、こういった規範を内面化した個人を想定しているという点でも過剰社会化モデルと過小社会化モデルは共通点がある、とも。

ただ近年になって不完全な市場を想定したミクロレベルのモデルが経済学で考察されてきていて、その代表が新制度派。新制度派は、たとえば不正行為については、それを抑制するように制度が(進化的に)組み上がるはずだと考えるが、そういった制度は信頼を創出するのではなく、それを機能的に代替するものである(たとえばヒエラルキー組織が指導者の専断(fiat)によって不正を抑制する)。こういった考え方は、個人的関係やその中に組み込まれる義務が(制度設計とは別の次元で)不正を抑制することに気づいていない。さらに、信頼を制度的配置で置き換えると、それは結果的にホッブズ状態を帰結する。なぜかというと制度のウラをかいくぐる個人が必ず出てくるからである。

K.アローは信頼が成立する前提として暗黙の同意(agreement)があるはずだ、と述べているが、こういった一般的道徳による解決は実際にはかなり限定的な取引(一回きりの匿名的取引)においてしか必要ではない。その場その場での人間関係が存在することで、たいていの取引における信頼は説明できてしまう。

つまり、多くの経済取引を可能にし、コストを引き下げる信頼については、制度的配置(公的組織)によって代替されると考えたり、一般的道徳によって達成されると考えるよりは、取引が様々な(インフォーマルな)社会関係に埋め込まれていることによって可能になる、と考える方が自然である。

こういった考えを披露した後で、グラノベッターは取引行為が社会関係に埋め込まれていることは、不正行為を生む条件ともなっていると指摘する。社会関係の中で他人を信頼するということは、他人が信頼を裏切って不正を働く余地を残す、ということである。原子的個人が起こす不正は、社会関係のなかで起こる不正に比べれば規模の小さいものである。

このように考えると、取引を組織の中に含み込めることの効果(効率性)は、指導者の専断などによるよりも、関係をより濃密にすることによってよりよく説明できる。ただし、組織内の社会関係は取引費用を縮減することにつながるとはいえ、組織が効率性を達成することを保証するわけではない。

最後に少しだけ引用。「社会的影響によって合理的選択が歪められるという考え方は、経済生活の詳細な社会学的分析を長い間阻んできたものだし、経済学に修正が必要だと論じる人たちが素朴な心理的効果に注目してしまうことにもつながっている。...問題は素朴な心理学にあるのではなく、社会構造を無視することにあるのだ。」(506)

感想:グラノベッターのウィリアムソン批判の批判

こういうこと言うと社会学者の裏切り者になっちゃいそうですが、正直、反論になってないんじゃないか、というのが最初の感想。たしかに社会関係を考慮した方が一見説明力が上がるように見えますが、「どういった場合に社会関係は不正や機会主義を生み、どういった場合にそれを抑制するのか」について全く考察がなされていません。経済学的にはこの問いに答えることは簡単で、競争圧力から、効率性を生むようなインフォーマルな社会関係(懇親活動など)は公式な関係として制度化されるか、黙認されるでしょう。逆に非効率性をもたらすような社会関係(派閥、コネなど)はその継続が難しくなるように制度改変されるでしょう。そしてこれはウィリアムソンが展開している制度化による解決論の射程内です。グラノベッターが「現に(ウィリアムソンが考察していない)インフォーマルな社会関係が存在していていろんな作用を及ぼしている」と指摘しても、それはウィリアムソンの議論に貢献するものではあっても、議論をひっくり返すものではないと思います。

ではなぜグラノベッターがこれを反論だと考えているかというと、「ウィリアムソンの議論では社会関係を度外視していて、説明できていないことがあるじゃないか」というツッコミを入れたいからでしょう。それはそうかもしれませんが、読んでいると「だからなんだ」と逆にツッコミを入れたくなります。というのは、社会関係を考慮に入れても新制度派的なモデルは依然として有効だからです。

背景にあるのは、次のような事情じゃないでしょうか。

まず、社会学と経済学の関係は、基本的に「合理的個人から出発するか制度・構造から出発するか」の違いとして認識するとすっきりします。経済学は「制度は合理的個人の活動の結果できあがる」と考えるのに対して、社会学は「人間は制度に投げ込まれている」ということに注目します。人間は主体的に行動する前に、言語、様々な文化的コード、行動規範などによって構造化され、それなしには思考することさえできませんから、明らかに「社会理論としては」経済学は社会学に比べて遅れています。グラノベッターの「埋め込み」論は、ギデンズの構造化理論に似ている点もあります。

しかしそもそも「埋め込み」を語るなら、社会関係といった中途半端な構造ではなくて構造一般を想定すべきでしょう。言語形式、文化コード、行動の習慣的規範などが構造として存在しており、社会関係はそういった形式の一つです。厳密には、具体的な相互行為は構造に規定されて生じるのではありませんが(規則は行為を決定できない)、社会学理論では「行為と構造の相互規定関係」として考えられています。

ともかく経済学と社会学は、このように社会理論としては対照的ですが、そのこと自体が新制度派を含めた経済学のモデルの有効性を損なわせるわけではありません。というのは、このモデルはそもそも規範的なモデルだからです。根底には、「こういうモデルになったほうが人間は幸せになれる、もし(社会学者が指摘するように)そうなっていないのならどう制度を変えればよいのかについて(必要なら新たなモデルを組んで)考えよう」という発想があります。このことは行動経済学のように合理性の前提を覆そうとしている流れについても同じでしょう(人間の「非合理性」を踏まえて制度設計につなげようとする)。

これに対して社会学者の理論は「説明」が目的になっている面が強く、そのためにその説明モデルをどのようにも規範モデルに活用できる、ということになります。私がみるところ、二者はこのような協力関係にあるのであって、「どっちが正しい社会の説明をしているか」で対立しているのではないと思います。

他方で、社会学理論が説明を目的としていることが、逆に説明力を低下させていることにもつながります(実際社会学理論はなぜ組織が存在するのかを説明できません)。これについては改めて。