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社会学者の研究メモ

はてなダイアリーから移転しました。

リベラリズム、コミュニタリアニズムと社会学

先日ディスカッサントとして招かれた社会学史学会で、コミュニタリアニズムについて話をする機会があった。おさらいがてら読んでみたのが、菊池『日本を甦らせる政治思想:現代コミュニタリアニズム入門 』だったのだが...。私も、著者自身が「日本ではコミュニタリアニズムは誤解されている」と述べるとおりであると思うのだが、そうであればなお、批判者を説得できる書き方をした方がよかったのでは、と思う。私自身はどちらかといえばリベラリズムに共感しているが、残念なことにこの本によってはあまり説得されなかった。自分が主張したい議論について書くのなら、その議論に真っ向から反対する論者を説得するつもりで行うのが理想である。たとえば市場原理を批判したいのなら、相手はミクロ経済学者である。

日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

リベラリズムコミュニタリアニズムの対立は公共哲学での代表的な争点だが、リベラリズムコミュニタリアニズムも政策に直結する主張を持っているので、経済学者も社会学者もその論争から自由になっているわけではない。「論争」が成立していることからもわかるように、コミュニタリアニズムリベラリズム批判には正当な理由がある(ここなど参照)。経済学の世界ではこういった論争は無視されているが、厚生経済学の分野では広義のリベラリストコミュニタリアニズムを迎え撃っている、といってよい。概してコミュニタリアンの味方は経済学の世界にはいないだろう。では社会学ではどうだろうか?

有名な「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という枠組みから分かるように、社会学はその発端からコミュニティの崩壊に伴う問題を取り扱ってきた。つまりコミュニタリアニズム社会学の基盤の一つであった。都市社会学ではフィッシャー、ウェルマンらによってコミュニティ崩壊命題が検証されてきた。両者はともに(パットナムの主張とは違って)コミュニティ崩壊は生じていない、別の(社会的ネットワークという)形で生まれている、と論じたが、研究関心の出発点には広義のコミュニティを肯定的に捉える態度があったといえる。

興味深いことは、社会学のもう一つの大きな関心が「階級・階層論」にあった、ということである。親職と子職のあいだの移動・開放性、あるいはジェンダー格差を問題にする社会学の階層論は、その問題関心の基底に、ある意味では経済学よりもリベラルな、機会平等を良しとする考え方がある。

このような「社会学の中でのコミュニタリアニズムリベラリズム」は、お互いに干渉せずに併存してきた。とはいえ、小さな規模では階層論者がコミュニティについて否定的な見解を披露することはあった。ブルデューソーシャル・キャピタルを再生産装置として、批判的に概念化した。都市社会学的研究からも、コミュニティ結束についてはネガティブな作用を指摘する声がある。サンプソンは低階層コミュニティにおける貧困の集中について実証したし、リンはソーシャル・キャピタルの階層化について独自の方法(地位想起法position generator)で実証した。これに対してコミュニタリアニズム的立場からは、コミュニティが具体的にどういったメリットを人にもたらすかということについてしっかりとした主張がされることはあまりなかった。多くの場合、コミュニティの崩壊はよくない、ということが前提とされてきた。

このようにみると社会学内ではリベラリズムに分がありそうだが、話はそう簡単ではない。ギデンズが構築した比較的新しい社会理論は、社会学理論の特徴が「構造」を出発点に置くことにある、ということを再発見した。人間は構造に埋め込まれ、構造(規則、意味)を反復的に習得することを通じて初めて合理的思考ができる「個人」になる。また習慣的行動は人間心理の安定の基礎となっており、変化する環境は存在論的安心を堀崩すことが指摘される。「第三の道」の提唱者としてリベラリズム陣営に入れられてしまいがちなギデンズも、再帰的近代社会における伝統・習慣の崩壊をある意味では否定的にみている。ここにリベラリズムでは擁護しきれないコミュニティの価値を認めることもできる。

また、ギデンズはモダニティを「内的準拠性(手段的合理性)」の浸透として捉え、その行き着く先はポスト・モダニティではなく(ギデンズの枠組みではポスト・モダニティはむしろモダニティの一部である)、後期モダニティ(late modernity)とよばれる段階であり、そこにおいては手段的合理性が「飽和」し、逆に目的それ自体に価値を置く「ライフ・ポリティクス」が登場する、と論じている。ここでは道徳がその意味を「ずらされる」のではなく、「再登場」する。イングルハートなら「脱物質的価値観」と呼ぶような「自然保護」「スローライフ」「ホスピス」「フェミニズム」等は、そういったライフ・ポリティクスの例である。

ライフ・ポリティクスの登場は、モダニティの内的準拠システムの拡張の矛盾した性質に結びつく、後期モダニティにおける自己の再帰的プロジェクトの重要性に由来すると私は論じてきた。自由に選択されたライフスタイルを採用する能力は、ポスト伝統的秩序にとってつくられた重要な恩恵であるが、解答に対する障害に対してのみならず、様々な道徳的ジレンマに対しても緊張した関係にある。...私たちは偏見のとりことなることなく、いかにして社会生活を再道徳化できるのだろうか。(『モダニティと自己アイデンティティ』261頁)

コミュニタリアンにしてみれば、再道徳化は何らかのコミュニティなしには不可能だ、ということになるだろう。リベラリズムコミュニタリアニズムの論争は、こういった後期モダニティに置かれた人間の問でもある。

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会