社会学者の研究メモ

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「市民メディア」について

以前から考えようと思っていた「市民メディア」について、腑に落ちる文章があったので引用します。

市民ジャーナリズムは、混乱と炎上を越えて立ち上がるか:オーマイニュース日本版船出の裏側佐々木俊尚さん)

東京・汐留にあるパークホテル東京のラウンジで、私は呉代表と会った。彼は単刀直入に、

「日本でオーマイニュースを成功させるのには、どうすればいいと思うか?」

と聞いた。私は日本のネットメディアをめぐる現状について説明し、いくつかの論点を挙げてオーマイニュースを日本に輸入することの意味と困難さについて話した。

最大のハードルは、メディアが持つべき「立ち位置」の問題である。日本では団塊の世代を中心とする層が、どちらかといえば左派寄りのスタンスを持つのに対し、インターネットの主たる利用者層となっている団塊ジュニア以下の若者たちは、ネオリベラル的、右派寄りの思想を持っている人が実に多い。つまりは「新=右」「旧=左」というねじれた構造になっている。この新旧の世代対立はかなり根深く、お互いの拠って立つ共同基盤は存在しないのではないかと思えるほどだ。そしてこうした構造の下では、若者たちは「市民ジャーナリズム」という左派的な言葉に対して何の幻想も抱いていない。

つまりは「市民が参加するジャーナリズム」というテーゼ自体、団塊世代的な左派臭があり、ネットの世界にはなかなか受け入れられないのではないかと思ったのだ。

韓国では、そうではなかった。

韓国では、1960年代から長く続いた軍事政権の負の遺産として、新聞やテレビなどのマスメディアに対する報道規制がきわめて厳しく行われている。たとえば、のちの映画「シルミド」で知られるようになった71年の北派工作部隊反乱はいっさい報じられなかったし、80年の光州事件もそうだった。93〜94年の北朝鮮核危機も同様である。こうした報道規制への鬱屈した不満が、インターネットと結びつき、その不満がオーマイニュースという噴火口から一気に外に噴き出したのである。

韓国で「市民メディア」が成功した背景には左派的な体制批判があった、ということでしょうか。もし日本の全共闘時代にこういったメディアがあれば、確かにそれは盛り上がるでしょうね。

市民記者や編集スタッフの記事の書き方そのものにも、問題があった。

ネットの世界では、2ちゃんねるであろうとブログであろうと、情報源(ソース)をきっちりと提示したうえで、論理(ロジック)付けを行っていない記事は嫌われる。なぜなら、ネットの世界では書かれた文字だけがすべてであり、それ以外には判断する材料がない。さらに言えば、高度経済成長もバブル経済も終焉を迎え、総中流社会はいまや崩壊してしまっている。人々の拠って立つ共通の基盤が失われつつあるこの世界では、正義という言葉ひとつをとっても、それがどのような定義で語られているのかを厳しく問い詰められる。アメリカのブッシュ大統領の語る正義と、イスラム圏に住む人たちの語る正義、共産中国の人たちが語る正義は同じ用語であっても、持っている意味合いは著しく異なっている。

だがそうしたソースもロジックもすっ飛ばして、「とりあえず政権批判していれば受け入れられるだろう」という記事が、創刊当初のオーマイニュースには少なくなかった。

たとえば「高校野球への報道姿勢を問う」という市民記者が書いた記事は、早実の斎藤投手への過熱報道が、なぜか小泉批判につなげられ、「小泉首相のワンフレーズポリティクスに伴い、報道も勝ち負けの二局論に傾く傾向を感じる」(原文ママ)と結ばれている。  私がこうした記事を批判すると、オーマイニュース内外から強い非難があった。たとえば、「市民記者が自身の生活実感に照らしたうえで、政権批判の記事を書いてきたのであればそれを批判するのはおこがましいのではないか」といった非難である。

しかし先に説明したように、読者となる人々の考え方がマトリックス化して分断されてしまっている状態では、「なぜ私がこの問題について怒りを覚えているのか」「なぜ私が感動したのか」「なぜ私はこれを批判するのか」という前提を、きちんと説明しなければならない。書き手と読み手がお互いの共通基盤を手探りしながらさぐりあて、それを確認しなければ安心して記事を読めないのだ。政権批判をするのであれば、なぜ早実の斎藤投手報道と小泉改革がつながっているのかを、きちんと説明してほしいと思うのだ。

そうでない記事が多いから、「この記事にひと言」欄で激しく批判される。インターネットの世界の言論には容赦がないから、言葉も優しくない。だから市民記者の側には「『この記事にひと言』欄を読むのが怖い。もう記事を書きたくない」「このような誹謗中傷を書き込まれるなら、市民記者を辞めたい」といった反応が出てしまう。

(たくさん引用してごめんなさい。)

佐々木さんの主張の大事な部分は、「記事の質が悪いからコメント欄が荒れるのだ」というもの。これに対しては反論があった。要するに、「コメント欄が荒れるのは、Oh My Newsが最初から市民メディアに対して批判的な(右派的な)人たちの標的になっていたからだ」というものでした。(反論というか、むしろ同じ意見のような。)

頭の整理がてら、基本的なところから確認しておくと...。

  • いわゆる新聞記事には二種類ある。ひとつは取材を元にした記事、もう一つはどっかの取材記事をもとに論評をした文章。
  • 前者(取材記事)については、取材にかかるコストの問題から、市民メディアにできることは少ない。取材記事に関しては、佐々木さんの言葉では、「ソース」の善し悪しが記事の質を決定しますから、市民メディアの取材記事の質をあげるのは難しいのでは、という仮説が立てられます。
  • 後者(論評記事)については、そもそもブログでみながやっていること。ブロガーを「市民記者」と言い換えてみただけ。佐々木さんの言葉では、「ロジック」の善し悪しが記事の質を左右します。

以上をふまえて「市民記者の記事の質」について考えてみると。

まず後者についてですが、いわゆるアルファブロガーと言われる人たち(現役の学者、特に経済学者が多い)の分析力に一般人がかなうとは、少なくとも私には思えません。

前者については...少なくともOh My Newsの現状を見ると、市民記者の「取材力」は、文字通り市民レベル(学生レベルといおうか)ですね。他メディアからのソースの拝借をしない独自取材記事はそもそも数が少なく、マスメディア記事の分類で言えばいわゆる「ヒマネタ」がほとんど。

Oh My Newsの記事が、独自取材のヒマネタと、体制批判的な論評記事に分かれているのには、そういう理由があるのではなかろうかと思いました。