社会学者の研究メモ

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メディアリテラシー?

チェコの「アートグループ」がお天気カメラをジャックして核爆発のフェイク画像を放送した、という内容。

お天気カメラが核爆発の瞬間を捉えて生放送

今回の活動によって、実際の我々が現実と思っている世界は単純にメディアが作った世界を見ているだけであり、我々がテレビで毎日見ているものが「現実」であるかどうかはわからない、としています。また、新聞やテレビ、インターネットなどのメディアは本当に「現実」を伝えているのか?と疑問を呈しており、これが今回の核爆発映像を流したコンセプトであり、公共放送はこのようにして現実でないものを現実として視聴者に見せることができるのだから、なおのこと「真実」を伝えなくてはならない、とのことです。

率直に、こういう活動には意味がナイ、と思いました。

「私たちは現実ではなくメディアによって作られた世界に生活している」みたいな言い方って俗流の社会学なんかではホントによく聞くんですが、非常にミスリーディングなので、もうやめたらいいんじゃないでしょうか。なんでかというと、このメッセージに従うと、「メディアによって与えられた情報に満足せずに自分で真実を探求しなさい」という結論になるんですが、そんなことは論点のすり替えにすぎないと思うからです。

肝心なのは、「自分で確認する/しない」という軸を至上命題とするのではなく、それを社会的・経済的な他の変数の中に入れ込むこと(媒介させてやること)です。放送を通じた報道をなぜ人は信じるのか? とりあえず信じておいて問題がないからです。で、そういう信頼を支えているのは社会経済構造です。同じことがブログに書いてあっても信じないかもしれないけど、放送局は報道に関しては情報の真実性を根本的なところで商品価値としています。もちろん放送する情報の「真偽」とは別のレベルで情報の取捨選択をしますが、それも広告主との関係といった経済的事情によって説明できます。もちろんメディアは間違った情報を伝えることもありますが、それによって生じうる損害の期待値は、逐一自分で情報を確かめるコストよりもずいぶん小さいはずです。

「自分の目で確かめろ」「メディアは真実を伝えろ」という非現実的で、発するのに苦労のいらないメッセージを伝えるよりも、地道に社会構造を観察しろ、という方がよほどよい社会を導けます。「生活者優先」とお題目のように唱えるのではなく、財政について地道に勉強した方が世のためになるのと一緒。

もちろん「メディアによって伝えられた情報vs自分で確認した情報」という二分法が全く意味を持たない、と言っているのではないです。たしかにそういう屁理屈的批判を通すこともできます。「目の前で人が死んだ」といっても、視覚の混乱かもしれないし、高度な技術によって仕掛けられたフェイクかもしれない。しかしこういう批判のやり方は認識論の独我論と一緒で生産的ではないですね。