社会学者の研究メモ

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社会学主義

講義録は小休止。

私はよく「経済学は社会学より進んでいる」とか(別に言わなくてもいいのに)「社会学者にはアホが多い」とか言って、一部の経済学者の方から変な目で見られたり、同業の社会学者からは白い目でみられたりするんですけど、他方で変なところで「社会学主義」なところもあります。特に社会哲学や社会理論*1の本を読むときに、そうなります。心のどこかで、センやロールズよりもウェーバーの方が優位だ(進んでいる)、と思っています。

例えば、社会哲学や社会理論は社会学の基礎となるものである、それを基礎づけるものである、という見方って結構強いんじゃないかと思うのですが、もしかすると逆かもよ、と思うわけです。例えば「過去の講義録」でも書きましたが、「自己決定」について社会理論家や社会哲学者はいろいろ論を尽くして定義しようとするのですが、自己決定がなんなのかは、実際には社会学的にしか明らかにできないことです。

これはもちろん相対主義なんかじゃなくて、自己決定を狭い論理じゃなくて広い視野で経験的に説明しよう、という態度です。エスノメソドロジーなんかはミクロな場面の相互行為を使って精緻な説明を展開していますが、私自身はもう少しざっくばらんに経済や制度を説明要因にしてもいいかと思います。「現在通用している自己責任のあり方は、現在の社会経済制度を機能させるのにマッチしている」とか、「実際にはマッチしておらず、矛盾が多い」とか、「責任が個人に帰属されるのは、社会がフクザツになってきたことへの機能レベルの対処である」*2とか。

社会学の強力なところは、いろんなあやしげな前提を置く必要がない、というところにあります。「個人」なんかリベラリズム思想や経済学では前提ですけど、もっと説明される側にまわしてもいいのに、と思います。もっとも、「個人を説明すること」は社会学者でさえあまりやってないことです。ただ、パーソンズから続く機能主義の伝統にはこういう傾向があります。私も、「機能」や「合理性」は「個人」や「社会/組織」といった概念を説明するものであって、逆ではないと考えています。

で、現代のリベラリズム論争(質の高い議論ももちろんありますが)がどこか白々しく感じられてしまうのは、ウソくさい概念がじゃれ合っているように見えてしまうからです。こう考えると、社会学者の活躍する余地は結構多いのでは、と思います。

まあ、単なる勉強不足でそのうち考えを改めることになるやもしれません。大学院のときは周囲にこういう議論に乗ってくれそうな人が多かったのですが、そういうのは珍しいんでしょうね。

*1:私は、社会理論social theoryは社会学とは違う学問的営みだと考えます。

*2:ルーマンがそういうこと言ってなかったか。