社会学者の研究メモ

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なぜ公私が分離するのか

私にとって「公と私の分離」という現象はずっとエニグマ*1だった。どうしてこの二つは分離しているんだろうか? 社会学者はこの謎を解けなくするための余計な知識*2を積み重ねることはあっても、真っ正面からこの問いに取り組んでこなかった。

しかししつこく考えてきたおかげで、解決の糸口がつかめたように思える。要するに、とりあえず「合理的選択」で説明できる、ということ。親密な関係によってより効率的にもたらされる財やサービスというものがある(例えばメンタルな満足・サポート)。人が市場や政府といった公的セクターから財・サービスを調達する度合いを強めていく中でそれでも親密性を残しているのは、人と親密な関係を築くことによってより効率的に得られるものがあるからだ。逆にそれ以外の財・サービスは遅かれ早かれ親密性の外からでも調達できるようになるだろう。(家事サービスとか。)

あまり一般的な言い方ではないが、新制度派経済学が根本的な出発点としているのは、実は「制度」ではなく「資源/財・サービスの性質」である*3。「道路」が公共財であるのは、排除可能にすることが高コストであるという性質を道路が持っているからである。同じようにメンタル・サポートは、よく知り合った人(典型的には配偶者)から調達する方が低コストであるから、「親密財」と呼ぶことができる*4公共財は市場になじまず、政府から提供されるのが効率的である。親密財は市場からも政府からも効率的に調達されることがない。

たしかルーマンがどこかで似たようなことを書いていたような気がする。

*1:enigma {名} : 謎、謎めいた言葉、不可解な出来事(英辞郎より)

*2:テキを作るの承知で言えば、「生活世界の植民地化」とか「コミュニティ」とか「世界の複数性」とか「親密圏」とか「公共圏」とか。

*3:D.ノースは取引費用と制度を出発点としたが、理論的にはそれ以前に限定合理性を想定している。しかるに限定合理性とは要するに生産効率を規定する人間の頭脳という資源の性質である。

*4:ただし英訳するとあまりいい意味にならない。