社会学者の研究メモ

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「話し合い主義」への違和感

もう勢いで書いちゃおう。

市場が万全ではない以上、どこかにゼロサムゲームが発生し*1、誰かが社会や組織を制御しないとみなが(あるいは一部の人が極端に)不幸になってしまう。首尾良く制御するためにはどうしたらいいのだろうか? 民主主義なんだからみんなの意見を集約してまとめて実行すればいいのだ、と素朴に考えているような人はもうあまりいないだろう。ほんとにそんなこと(素人ガバナンス)してたら、めちゃくちゃになってしまう。国民や社員がみな頭がいいわけではないし、頭が良くても仕事が忙しいので、政治・経済・ガバナンスについて考えるヒマがあったら働いて会社に貢献し、税金を納めて国家に貢献した方がいい。だから専門家(政治家・官僚・執行部)にあるていど委託して制御してもらうのだ。

任されたエージェントは、分配決定権を持っているから頻繁に悪さもするけど、まあなんとか仕事を果たそうとする。そのときに、制御の対象となるものの様子と挙動について知らないと、制御しようがない。ここで、エージェントが社会・組織について知る手段として、どういう方法があって、それぞれの方法がどういうメリット・デメリットがあるかを知ることが大事になる。

しかし現実にはこうはならない。一番拙いのは、「知ること」が軽視されている全社会的な風潮である。これは「話し合い主義」を帰結する。話し合う前に調べろよ、というまっとうな意見は流される。たいがい政府関係者の会議でもホームルームでも教授会でも、非常に不完全なデータと認識しかないところで「討議」によってコトが進むから、「討議」はイデオロギー対立と利益/レント獲得競争の場になる。一致した状況認識があれば、もし誰かが誰かを明確に不幸にしたいと思っているのではない限り、対立なんてほとんど生じないはずだ。下手をすると、対立が意見対立なのか現状把握の対立なのかもよく分からない混乱状態になる。調べることにはコストがかかるから完全な状況把握なんて無理なのだが、それにしても「話し合い主義」のせいで、適切な調査コストが負担されていないように感じることは多い。

どうして「知ること」が軽視されるのだろう? 一番大きな理由は、(以前どっかのエントリに書いたけど)「意図すればその結果は実現する」(社会の透明性)という単純な見方が優勢だからだ。ここでは「みなが善いことをすれば、みなが幸せになる」となる。しかし幸せの形は多様だ。だから話し合って妥協点を探しましょう、となってわざわざ無駄にゼロサムゲームを始めてしまう。善意がもたらす資源の奪い合いである。その前にやることはあるのに..。

要するに、こうやって「民主制」は弱肉強食の社会を再生産しているわけだ。

*1:ちなみに市場メカニズムが上手く働いている間はゼロサムにはならない。ここんところ、社会学者は注意。