社会学者の研究メモ

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組織と家族(1)

理論(学説)を離れ、家族に関する経験的な研究の世界にはまりこんでから約二年。腐臭を放っている理論脳にムチ打ちながら、最近考えていることは、やはり「家族」のこと。

理論的に考えれば考えるほど、家族っていうのは、「いったいこりゃなんだ」という謎な存在です。以前ブログに書いたように「恋愛」についてはなんとなしに合理的に説明できるような気がしてきた。かの吉本隆明は「恋愛とは語られ得ぬもの」と断定したが(その割にはいろいろ語ってるけど)、恋愛行動のうち、合理的に説明できることは実はいろいろあるのだ。しかし家族はもっと手強い。家族は組織の一種に見える。なので、もしかすると組織論で説明できるかもしれない。なので「組織と家族」について頭を整理することにしよう。

今回はまずおさらい。組織はなぜ存在するのだろう?

R. コースの整理では、市場と組織は取引費用を節約するための二つの方法である。取引費用とは以下のようなコスト。

  • 測定コスト:労働サービスや商品の価値を価格基準で測定するためのコスト。
  • 交渉コスト:取引が長期に及ぶような場合*1、完備契約を結べなければプリンシパル・エージェント問題が生じる*2。完備契約は高コストであるから実質上は不可能だ。
  • 強制コスト:取り決めたルールを守らせるためのコスト。社会レベルだと、警察組織や司法システムにかかる費用。
  • 調整コスト:最適な資源配分を考えるためのコスト。意思決定コスト。

市場は価格メカニズムによって資源を配分することで特に調整コストを軽減する仕組み。しかし他の取引費用は市場ではなかなか軽減できない。

組織とは、比較的固定的なメンバー、固定的な役割、固定的な賃金体系で、比較的硬直的な作業を行うところだ。成員の労働の価値や能力をいちいち考えて最適な配分をするのではなく(そんなことができるのなら市場から調達した方がよい)、「まいいや」と割り切って、生産活動に当あたるのだ。そうしないと人間はモノやサービスをそもそも生み出すことができない。

何も考えないでぼーっと固定メンバーで固定的活動をするだけでも取引費用の削減にはなる。取引費用を完全に度外視してもモノの生産はできる。逆に資源配分を完全に考え抜いたり、完備契約を作成したりしてからしか生産しない場合、考えるコスト(思考コスト)もかかるし、遅れた生産による機会損失もある。しかし思考コストにみあう生産性上昇があるなら、取引費用を負担する価値はある。

個人は、生産財を組織と市場とどちらかコストが安い方から調達する。この時点で組織に「人」が入っている必要ない。何を市場で調達し、どこから自分で作るか。これを人間に適用するといわゆる組織の境界が決定される。

とりあえず取引費用論に立脚した組織論はこんなもの。続きは次回。

*1:繰り返し取引じゃないよ。注文して商品が届くまで時間がかかったり、労働の委託などをする場合。

*2:簡単に言えば、見張ってないとちょろまかしたりさぼったりすること。