社会学者の研究メモ

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成長・公平・平等(・自由)

ある論文を書いていく中で気になったこと。

  • 経済成長と公平は矛盾することがある。(市場の失敗とは別の話。)
  • 公平と平等は矛盾することがある。
  • もちろん経済成長と平等が矛盾することもある。(格差社会。)

これらの矛盾は、成長を重視する経済学ではそうでもないが、社会をトータルに捉えようとする社会学にとって基本とすべき矛盾だ。たいていの政策論議というのはこの三つをめぐって争われるものである。矛盾しなければそれに越したことはないが、低成長経済下ではこれら三つの矛盾が明確になる。それに人間というのはおかしな効用関数を持っているもので、「みな貧乏でも公平な方がいい」と考える人もいれば(私は違うけど)、「相手が10幸せになって自分が5幸せになるくらいなら、相手も自分も0の方がいい」と考えている人も多いはず。だから社会理論は、ある制度が成長・公平・平等をどのように実現するか/しないかを吟味できる枠組みであるべきだ。(数理社会学の人がやってますね。)

ところで「自由」は社会理論上どう位置づけたらいいのだろうか?

経済学的には自由とはたいていの場合「自由化された状態」「規制がないこと」だろう。価値理念としての自由の意味はこういった狭い意味ではなく、それよりももっと広く、崇高なものに聞こえる。しかし私は基本的に近代社会の価値理念としての自由はこういった経済学的な意味で捉えるのが一番だと思う。

たとえば「職業選択の自由」。この自由を日本人はみな保証されているが、だからといってみなが弁護士や医者になれるわけではない。職業は人間の商品としての側面である。基本的に市場原理が適用されている。

そして「言論(表現)の自由」。言論の自由を日本人ならば与えられているが、だからといって好き勝手に虚偽情報を流したり名誉毀損していいというわけではない。虚偽情報により株価操作をすれば、(極論すれば)経済成長を妨げた罪で、あるいは公平の理念を阻害した罪で逮捕される。

最後に「配偶者選択の自由」。もちろんこれは「誰でも伊東美咲と結婚することができる」ということを意味してはいない。ふつうは釣り合いのとれた相手と結婚するものだ。ただし、非常にランダム性の強い市場であるが。

こう考えていくと、自由という理念は他の三つの目標・理念に比べると一段階低い、従属的な理念なのかなあ、という気がしてくる。市民革命がブルジョワによる革命だったこともその反映。封建制に対する自己目的な「自由」の獲得ではなく、労働市場の確立(身分制の撤廃による職業移動の自由)のための革命、という側面が大きかったのだ。

ひさびさに頭の整理でした。