社会学者の研究メモ

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「少子化論争」(3)

完全に公平な世界というのは不可能です。たとえば人間と人間の出会いは多くの場合ランダムなものにならざるを得ません(偶然の出会いを美化するロマンティックラブ・イデオロギーはこの「不当」な宿命を正当化するものです)。その限りで、出会いとそこから形成される親密な関係には常に非効率がついてまわります。

ちなみにここ、厳密にいうともっとややこしくなります。関係性から得られる満足の総量が「とっかえひっかえ公平な、ベターマッチングの関係」を築く場合よりも「一人の相手とじっくり」の場合---つまり「愛に殉じる」人や「古女房と添い遂げる」人の方---が大きいとすれば、限られた人生、多少の公平を犠牲にした方が幸せになれる、ということですね。しかしこれはまあ当人の効用の内容に依存します。(そして親密性についての効用関数ほど、ライフコースに沿って変化するものは少ないんではないでしょうか。)

さて、出生に関して公平の価値に厳密に立脚するとすれば、最大の問題は家族です。

本来「子ども(したがって人間全部)にとっての公平」を徹底させるのなら、家庭環境がその子どもの人生を左右しないようにしなければいけませんから、親から子どもへの支援をすべて遮断しないとダメです。そのうえで、養育・教育のコストを---「公共」的に負担するのではなく---将来の子ども自身に支払わせるのです。こうしないと機会平等は達成できません。気をつけなくてはいけないのは、このことは別に子どもをかわいがってはいけない、ということではないということです。対等な主体間で愛情のある関係が成立すること自体は別に問題ではないですから。ただし、その人間関係がランダムな要素(「出会い」や宿命)に影響されたり、「えこひいき」になったりすると公平な世界に「歪み」が生じます。社長と部長の仲がよいのは好ましいことですが、そのことが部長の不当な厚遇に結びつくと不公平ですね。当たり前の話です。

しかしこんな、公平だけどヘンな世界で、多くの人がそれでも子どもをつくろうとする、とは考えにくいです。この世界では、自分の子どもが生まれた瞬間に子どもが独立した経済主体として制度的に成立します。「自分は子育て方法に自信がある」と思っていて、他の人からもそれを認められている場合でも、自分の子どもだけにそれを施すことができません。あらゆる子どもを公平に育てる必要があります。「あれ、市場原理なのだから、デキのいい子どもを世に送り出す(不謹慎な表現をすると「市場に出荷する」)ことは別に問題ないのでは」という反論もあるかもしれませんが、ここでは当の生産物自体が「公平」に生産されなくてはらないのです。

実はここで、公平と平等の理念が混じり合っているのです。子どもにとっての公平を徹底させれば、「子ども(という生産物)には市場原理を適用できない」ことになります。逆に親にとっての市場原理を徹底させれば、子どもの世代での公平は失われます。この矛盾は、「自分が生まれたのは自分のせいではない」という、平等な生存権の根拠となっている考え方があるからこそです。

最後に、話は変わりますが、こう考えていくとシンプルな意味での公平の理念というのは、徹底させるとすれば覚悟のいる恐ろしい理念だなあ、という気がします。まあそれでも「正義」とかよりは無害なのかもしれませんが、いずれにしろ軽々しく口にできないものですね。