社会学者の研究メモ

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質的研究と量的研究について

とある出版企画でそういうお話を書かなければいけないので、社会学におけるいわゆる「質的研究」と「量的研究」の区別についてメモを書いておく。

結論から言うと、次のように考えるとミスリーディングである。つまり、「まずある<理論>があって、それを<実証>する手段として質的な研究と量的な研究がある」という考えである。こういう考え方は、混乱のもとであるから、避けたほうがよい。多くの社会調査論のテキストでは調査手段の選択として「質的調査」と「量的調査」を選択することがあるかのように書かれているが、少々説明不足である。そうではなく、さしあたり量的研究とその他のタイプの研究が、量的研究とどのような関係にあるのか、と考えたほうがスッキリする。

分野外の研究者からすれば見えにくいが、実際には量的研究と言っても様々である。が、現状からして、「複数のパラメータを含むモデルを構築し、それをデータに当てはめて統計学的推定・検定を行う」タイプの量的研究と、それ以外、という分け方ができる。前者は「バイアスと誤差に関するツッコミに数値的に対処している」ということである。後者にはバイアスと誤差にあまり関心を持たない多変量解析の手法(因子分析、クラスター分析、対応分析等)が含まれる。バイアスと誤差に関心を持たないという点では、記述統計的分析(クロス表や相関係数による分析)もそこに入れてよいかもしれない。

いずれにしろこの記事では、様々なタイプの研究が、さしあたり前者のような量的分析の立場からの「統計学的なツッコミ(検証)」に対してどのようなスタンスをとりうるのか、を検討することから話を始める。

「バイアスに関する検証」とは、「それって◯◯を考慮してないからそう見えるだけじゃないの?」というツッコミである。こういうツッコミは、量的研究に限らず様々な日常的コミュニケーションにおいてみられるものである。たとえば、家事分担に関する夫婦のやりとりを考えてみよう。家事を使用としない旦那に対して妻が「隣のご主人を見てごらんなさい!」(いまどきの旦那さんは、普通はもっと家事しているのよ!)と言ったとき、旦那は「隣のご主人は俺より早く家に帰ってるだろ? それに隣の奥さんは君より長い時間働いているよ」と、妻の認識のバイアスに関するツッコミを入れることができるかもしれない。つまり夫は、夫と妻の労働時間を統制すれば、家事の負担は公平だ、といいたいわけである。

また、「それってたまたまなんじゃないの?」と反論することもできるかもしれない。つまり夫は、妻が目撃した隣の旦那の家事は別の時間を観察すれば別様かもしれないし、広く世の中の旦那さんを見渡してみれば自分の家事負担はそれ相応だ、妻の認識は偶然の産物(誤差)だ、と言いたいわけである。

(バイアスと誤差については別記事を参照。)

このように、ある知見に対してそのバイアスと誤差を問うようなコミュニケーションは、量的研究でなくても、またその知見が数値にコード化されていなくても生じうる。しかし相対的に厳密な形で検証する際には、数値化した上で統計学的な手続きを行うことが必要になる。それによってある知見は、相対的に文句の出にくいかたちで、しかもある程度訓練を積めば誰にでもアクセス可能なかたちで、バイアスと誤差に関するツッコミを回避しつつ提示できるようになる。

もう少し科学的な用語を使って言い直せば、バイアスを除去するために科学者は無作為抽出のデータを使ったり、重回帰分析や実験的手法を活用したりする。また、誤差を減らすために層化抽出を行ったり、関連する変数を投入したりする。

実証が「成功」するかどうかについては、何らかの客観的な基準があるわけではない。結局は研究を聞かされた側が「納得するか」どうかにかかっている。数字データを使って実証した研究でも相手(多くの場合は研究者コミュニティ、つまり学会のセッションでの聴衆、ジャーナルの査読者、指導教員など)が納得しないことだってある。

さて、統計学的検証は、いかなる知識の提示においても意味を持つわけではない(というよりほとんどの場合は意味を持たない)。たとえば言葉の意味を定義するようなコミュニケーション(「その言い方って、こういう場合普通するんだっけ?」)の場合、「ああ、その言葉使いにはバイアスがかかっているね」という言い返し方は、かなり特殊な場面でしか通用しないだろう。同じように研究においても、提示された知識に対して統計学的な疑問を投げかけるというのは、ある言明が事実を特定の仕方で指し示しているような知識の提示においてしか意味を持たない。

統計学的な吟味を行うことが意味をなさない知識の代表が、理論的考察であろう。理論的考察とは、典型的には数理モデル上での数式の展開によって行われる。ここで「その数式展開にはバイアスがかかっている」とか「そのデリベーションはたまたまだ」といったツッコミをすることはできない。間違うとすれば、それは数式展開や証明のミスによるものである。

(↓社会学における理論研究の入門書)

数理社会学入門 (数理社会学シリーズ)

数理社会学入門 (数理社会学シリーズ)

また、言語や言語の使用規則を吟味するタイプの研究も、統計学的検討を必要としない。言語学的に文法の分析をする際、統計学的に決着を付けることはあまりないだろう。また、概念分析的研究(一部の哲学的研究やエスノメソドロジー的分析が典型的であろう)は、たとえば研究等で使われている「怪しい」概念(「自己」や「他者」などを思い浮かべるとよいかもしれない)を何らかのフォーマライズされた手続きをもって検討することを通じて、研究における概念使用を正常化するきっかけになるかもしれない。

(↓社会学における概念分析の本)

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

計量分析的研究との関係であるが、理論研究がかなり直接に「そのあとにくる量的検証」を見据えているのに対して、概念分析はそうとは限らない。理論研究が量的研究による検証と結びつきやすいのは、理論によって考察されていないパラメータがバイアス(合理的モデルからの乖離)を引き起こしたり、そもそも理論で予測されたパラメータの効果が誤差の範囲内である可能性が残されているからである。これに対して言語的な研究は、量的研究のための仮説を提示するような知識を与えるわけではないが、量的分析の前提となっている概念使用についてより適切な方針を与えてくれるかもしれない。

さて、理論研究と並んで計量分析的研究の問題関心を提起したり、仮説を提供したりするタイプの研究がある。社会学では特にそのタイプの研究が多いが、ここでは仮にモノグラフ的研究と呼んでおこう。モノグラフ的研究の特徴は、知識の提示の手続きがフォーマライズされていないことにある。既存の研究(古典を含む)、質的調査データ、断片的な統計データをもとに、新たな問題関心を構成したり、仮説に対して統計学的には厳密ではない検証を導いたりする。社会学では学説史研究や古典テキストの読解が「理論研究」と呼ばれることが多いが、これは他の多くの学問分野では通じにくい用語法である。むしろここではモノグラフ研究の一部に加えるべきだろう。

D.リースマンの『孤独な群衆』などは、モノグラフ的研究の典型例である。数式や概念(言語使用)分析のフォーマライズされた手続きを含まないがゆえに、かなり自由に議論が展開されるし、また「名人芸」が入り込む余地が生まれる。たとえ同じ材料が与えられても、研究者によっては別の議論や結論が導かれることもある。なかには、研究者独自の用語を生み出すようなモノグラフ的研究もある(「大文字の他者」とか)。

孤独な群衆

孤独な群衆

さしあたり数理モデル研究でも概念分析的研究でも計量的研究でもない研究をモノグラフ的研究というカテゴリーに押し込めたように感じられるかもしれないが、「フォーマライズされた手続きを研究のメインに据えていない」という共通項はある。「フォーマライズされた手続き」という言葉も少々曖昧だが、知識を導出する手続きがオープンで、訓練を受けた者であれば、手続きに沿って基本的に誰でも同じような結論を導くことができる(再現可能、検証可能)、という意味である。研究のうち、「科学」とカテゴライズされるものはこのように知識の導出手続きが公共的であることを最優先事項とするので、逆に手続きの公共性に気を配らないタイプの自由な論考はヒューマニティ(人文学)としてカテゴライズされやすいといえる。

モノグラフ的研究は「フォーマライズされた手続きを研究のメインに据えない」という共通項しか持たないので、統計学を使った量的研究に対して持つ位置づけは研究によって多様になる。とはいえ、理論研究でも概念分析でもないので、基本的には統計学的ツッコミを受ける知識を多く含んでいる。

たとえばある研究が代表性のない質的データをもとにある知見を導いているとき、概念分析をしているのでなければ、その知見は(コストや時間が許せば)統計学的検証を受ける可能性があると見ることができる。コストが許せば、というのは、こういうことである。たとえば「明治期の恋愛のあり方」について何らかの解釈を提示するような研究は、モノグラフ的研究になりやすい。なぜかというと、データの制約ゆえに小説や雑誌を使うことになるが、その選定や解釈の手続きをフォーマライズすることが難しいからである。(テキストを計量的に分析することはできるだろうが、やはり検証可能性、再現可能性はそれほど保証されない。)それゆえに、最初から型にはまらずに(型にはめようにも無理なので)比較的自由に論を展開しよう、という方針を生みやすいのである。

こういった研究に対しては、統計学的ツッコミを入れるのは野暮になる。が、野暮であるということは、「そもそも意味をなさない」ということと同じではない。ここが理論研究や概念分析的研究とモノグラフ的研究の違いである。時間を遡ることは不可能だろうが、たとえば日本に住む外国人を対象とした調査研究をするとき、現状では台帳の問題でランダム抽出が難しいが、将来的には可能になるかもしれない。

教育社会学の分野でよく見られる、いわゆる「計量的モノグラフ」は、標準的な計量分析の研究と違って、仮説検定の手続きをふくまなかったり、多種多様な統計データを縦横無尽に参照して議論を進めたりするところに特徴がある。厳密な検証をしない理由には幾つかあるだろうが、大きな理由の一つは、比較的長いスパンで社会制度・構造を観察するので、統計学的なモデルを使った検証(推定)をするためのデータがそろいにくい、ということにあるのだろう。また、計量的モノグラフを好む研究者は、検定を伴わないクラスター分析や対応分析の手法(多変量解析)を頻繁に使う傾向がある。社会の大まかな様子を見渡すのに適しているからであろう。

(↓典型的な計量モノグラフの研究。質的データも利用している。)

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて

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さて、量的研究者からすれば、モノグラフ的研究はツッコミどころをたくさん含んでいる。というより、モノグラフ的研究は、量的研究からすれば位置づけとしては理論研究と同じで、要するにそこから問題設定や仮説を引き出してくる源泉となる研究なのである。たとえば山田昌弘先生の「パラサイト・シングル」論は、厳密な検証を伴う研究ではなかったが、(イースタリン仮説など類似の問題設定は実は古くからあったのだが)その後の結婚に関する実証研究にひとつの流れを与えた。

パラサイト社会のゆくえ (ちくま新書)

パラサイト社会のゆくえ (ちくま新書)

モノグラフ的研究は、フォーマライズされた手続きを重視しないがゆえに、基本的にあやういものである。学会での議論も空疎な空中戦になりがちである。が、自由であるだけに、しばしば革新的なアイディアを提供してくれる。エスピン=アンデルセン福祉国家の三類型などはその代表例であろう。彼の『福祉資本主義の三つの世界』は、フォーマライズされた手続きをほとんど含んでいない。が、計量的モノグラフのメリットを最大限に活かして、その後の社会学や政治経済学の研究の流れを作ったのである。

福祉資本主義の三つの世界 (MINERVA福祉ライブラリー)

福祉資本主義の三つの世界 (MINERVA福祉ライブラリー)

さて、無茶を承知で以上の議論を単純化した見取り図を書いてみたので、参考(議論のたたき台)にしてほしい。

一見自由で多様な論述に見えて、その後の研究の方向性を規定するようなモノグラフ的研究には一定の特徴があるように思える。それについては、いずれ稿を改めて考察したい。

もう一点。日本の社会学ではモノグラフ的研究が優勢であるが、フォーマライズされた手続きを含まないがゆえに、若手研究者の訓練が難しいという難点がある。若手社会学研究者は、将来モノグラフ的研究を志向するかどうかにかかわらず、どれか一つくらいはフォーマライズされた研究の訓練を受けていたほうがよいような気もするのだが、余計なお世話なのだろうか。